長すぎたから目次なんか使ってみちゃったり
ハードボイルドとは
メジャーなジャンルではなくなってしまったが、ハードボイルド好きなんです。
酒と煙草と女と暴力、うだつの上がらないサラリーマンのおっさんが、自らを慰めるように格好良い主人公に自己を投影する、昭和のエンターテイメント、そんな印象があると思います。
いつしか負け犬男性の自己正当化コンテンツはライトノベルになってしまった感がありますが、ラノベ*1とハードボイルド小説には、決定的な違いがあります。
まず舞台設定は大半が現代であること。一部時代劇であったり第二次大戦中であったりもするが*2、基本的には読者に馴染み深く、世界設定を詳細に説明しなくとも物語が進行可能であること。
これはハードボイルド小説が一人称でありながらも、客観的で淡々とした描写で進行されることが大きな要因のひとつだろう。勿論、自己投影をしやすくするための舞台装置という側面もある。
次に、主人公が持ちうる能力について。ラノベもハードボイルドも、主人公の冒険活劇と捉えることが可能だが、その冒険内容や障害への対処方法には明確な差がある。
ハードボイルド主人公と、作中のその他大勢の男性を分ける大きな要因は、優れた身体能力や知能ではなく、精神性にある点だ。
ラノベでは剣や魔法のファンタジー世界が多いこともあって、他人には無い能力*3が備わっており、それらを利用して物事が展開していくことが多いが
ハードボイルド世界では物事が展開し、それでも主人公が精神的に変化しないことこそが、強さや差別化として表現される。(探偵の主人公が卓越した推理能力で事件を解決することもあるが、著名な名探偵というよりも、私立探偵として泥臭い仕事をこなす側面が強い)
また暴力的なシーンも多くあるが、一方的に腕っぷしで乗り越えるよりも、肉体的、精神的な強靭性を前面に押し出されることが多い。*4
これはハードボイルドというジャンル名の由来が「固茹で卵」、つまり物事に動じず変化しない様を表しているが故だが、日々の生活で我慢を重ね、鬱屈した読者を正当化する機能を果たしている。
ラノベで「こうなったらいいのにな」という安直なハーレムが描かれることがあるが、ハードボイルドでは「俺には恋人なんて必要ないのさ」というやせ我慢で自己憐憫を実現している。*5
少女漫画のジャンルでも、冴えない(はずの)女性主人公が労せずに逆ハーレムを形成する定番のシチュエーションがラノベ型であるのに対して
部活に打ちこむスポ根ものや、仕事や対人関係で主人公の成長を描くような作品がハードボイルド型と分類することができるだろうか。
男性向けと女性向けで異なるとすれば、(投影している読者を)誰にでもそうと分かる描写で持ち上げているか否か、が大きいと感じる。
上記のラノベ型で言えば、男性向けだと「仕方なく」同行する女性の存在や、主人公がそれを「やれやれ」と揶揄したりするが
女性向けではもっと直接的に(ありとあらゆるバリエーションの)イケメンが好意を寄せ、主人公もそれを歓迎する。(そして周囲もそれを羨む)
ハードボイルド型で言えば、主人公の強靭性や美学は自身のみ(あるいは一部の主要人物のみ)がその存在意義を認めるのに対して、女性向けでは普遍的な評価軸として主人公に与えられることが多い。
有体に言えば、男性は独占と自己満足こそが快楽に結び付いているのに対し、女性は羨望と共感が必要条件として挙げられやすい。(身も蓋もないステレオタイプだけれど)
最後に、ハードボイルドとライトノベル的な物語の差異に、というより、なぜ共通点を持っているにも関わらず、私がことさら前者を好むのか、という点にも触れねばなるまい。
ハードボイルドでは、どのような結末を迎えるにせよ、主人公や主要人物が何かを得るにせよ、必ず痛みが伴う。大団円のwin-winなハッピーエンドは決して描かれない。
それはつまるところ「失って初めて気づく大切さ」と言い換えることができよう。
悪の魔王を打ち倒し、お姫様と結ばれてハッピーエンドにはならないのだ。むしろ魔王にお姫様を殺され、復讐を果たして物語は終焉する。この場合、どちらがより深くお姫様への愛情を確認できるだろうか?*6
(「片想いは絶対に破局しない」みたいなズルい理屈だが、失敗から得る教訓はやはり尊い。)
人間は、得られた喜びより、失った悲しみのほうが感情の振れ幅として大きいことは心理学の観点からも実証済みである。*7
これらの見解はハードボイルドの表層を(同時にラノベの表層を)ごく一部切り取ってなぞっただけに過ぎないものだが、なぜ読んでいて気持ち良いと感じるのか、という説明の一部としては成り立つと思っている。
邦画の描く「内面性」
実はここからが本題なのだが、どうして長々とハードボイルドの説明をしたかというと、邦画の良さはこういう「内面性」にあると思っているからだ。
ハリウッド映画では舞台が世界や宇宙(!)規模まで広がることも珍しくなく、超人的な能力を持った主人公が*8美女と人類を救うべく奮闘するが、邦画ではそんな大風呂敷を広げてしまうと脚本が完成する前から大ボツを食らってしまう。
予算的な問題も多分にあるが、日本人で映画館に足を運ぶ客層が、それを望んでいないというのも大きいだろう。そういうのは、アメコミ原作の娯楽映画で十分事足りているのだ。
我々は、よく知る人物が、よく知る事柄を、少しばかりの非日常で解決するような、手の届くエンターテイメントを望んでいる。(と、されている。)
アニメを除く邦画の興行収入ランキングを見れば一目瞭然だろう。テレビでよく見たドラマの映画化が大半を占めているのは、予算と需要を満たしているからこそなのである。
具体的に、邦画で「内面性」はどのように描かれるか。
例えばオチにどんでん返しを用意したミステリ作品であった場合、洋画(特にハリウッド)では映像的にも見栄えが良い派手なトリックを用いがちです。
それによって主人公が利益を被り、ハッピーエンド。(もしくはその逆)
邦画の場合、主人公や犯人の心情、内面が明らかになることでどんでん返しが起きるパターンが多い。
それによってやはり主人公が利益を被り、ハッピーエンド。(もしくはその逆)
視覚的な隠し扉などではなく、内面的な心情を、あえて伏せておくことで(語らないことで)物語を急転回させる、いわば叙述トリックですね。
この手法は、人物評価を「誤解」している時ほど、効果が大きい。そっけない奴だと思っていたら、実は仲間思いであったり、親切な人だと思っていたら、超サイコパスな奴だったり。
完璧な密室だと思っていたら、巧妙な手法で抜け出していた、という構図と近しい。
代表例として、二つの作品を挙げてみよう。どちらも大好きな作品だ。
『完全なる報復(原題:Law Abiding Citizen)』 アメリカ 2009年公開
監督:F・ゲイリー・グレイ(ミニミニ大作戦とか)
主演:ジェイミー・フォックス、ジェラルド・バトラー
あらすじ
妻と娘を殺害された男性が、望まぬ司法取引で釈放された犯人に復讐を果たす。
やがて逮捕された男性は、完全犯罪も可能なほど知能が高いにも関わらず、むしろ積極的に自ら司法の裁きを受けようとする。
復讐を終えて罪を認めたはずの男性の、本当の狙いは何なのか。
『半落ち』 日本 2004年公開
監督:佐々部清
主演:寺尾聰
あらすじ
元警察官の男性が、「妻を殺しました」と自首をしてきたところから物語は始まる。
殺した動機、経緯など、細かに供述することから、事件は「完落ち」として解決するかに思われた。
しかし男性は殺害後の二日間の出来事については供述を拒否、事件は「半落ち」状態に陥る。
これってどちらの映画も、「犯人の目的は何ぞや」というのが物語のオチなわけです。
『完全なる報復』のほうは視覚的にも派手で、「こいつマジかよ・・・」と震え上がるような人物なんですが
『半落ち』のほうは淡々と描かれて、「ああ、そうだったんやねぇ・・・」という少しだけ温まるストーリーなわけです。
そもそもジャンルが違うし、『半落ち』のほうは原作と少しオチが違うやんけ、というツっこみもあろうが、本来なら「拘束された被告人」という不動の装置が、言動ひとつでコロコロ物語が転換しちゃう点については、比較の価値があると思っています。
オススメ邦画リスト
やっとこさ映画をオススメできるぜ!ここから読んでもいいよ。
まずは以前レビューを書いた『歩いても歩いても』
khvost.hateblo.jp
お盆に実家へ里帰り、という日本人なら大体経験しているであろうシチュエーションだが、家族の会話からそれぞれの内面が少しずつ見えてきて、「ヒエッ」ってなる隠れホラー映画。
人によっては、ほんわか家族の日常群像劇にしか見えなくて、邦画特有の肩透かしを食らうというのも個人的には「らしくていいなぁ」と思うんです。
上記レビューでも触れた『刑務所の中』
原作は実体験エッセイ漫画という異色の映画ながらも、その内容も異色だらけである。
実弾射撃可能な拳銃を所持していたとして、銃刀法違反で「執行猶予なしの実刑」を受けた作者の、非日常的な小話の詰め合わせ。
主人公演じる山崎努がとんでもなくいい味を出していて、その心情も終始一貫してほんわかしている。
そのほんわかしたおっさんが置かれている環境が、とんでもなく非日常すぎてギャップにビビる。
「麦飯にちょっと醤油かけると美味い」とか「便意をこらえて封筒作りの自己新を目指す」とか、気合の入れどころが常人離れしていて、いちいち面白い。
その健気さと、「狂った環境に耐えるには狂人になるしかない」という切なさに、初見でマジ泣きをした迷作である。当時、薬物使用の疑いをもたれていた窪塚洋介がシャバを懐かしむ名演技が笑いを誘う。
ちなみに似たような作品に『極道めし』があるが、こっちは単純なコメディなので気になったらどうぞ。
過酷な環境下で、頭のネジが飛んだり美味しそうにご飯を食べるという点では『南極料理人』も名作だ。冒頭の「お前がいないと・・・!」や「下の歯だったのに」は珠玉の名台詞となっております。
ちょっと箸休め、真面目(?)なミステリ作品『告白』
日本人で好きな女優ってあんまりいないんですが、松たか子は別格です。喋りがすごい。声を出すだけで演技ができる俳優はなかなかお目にかかれるもんではありません。
中学校の担任教師が、教壇から生徒に向けて淡々と「ある告白」をするところから始まります。
何がはじまったんだ?何が明らかになるんだ?と前情報無しで観たほうがワクワクするかもしれません。まさに内面を明らかにすること自体がエンターテイメントになっている、邦画のお手本のような映画構成です。
オチのあたりは賛否あるかもしれませんが、松たか子の存在感がすごい。『悪の教典』は生徒がわちゃわちゃしていたが、こちらは生徒に目を向ける余裕がないほど主演が光っている。
邦画あるある、素朴なしあわせ『小さいおうち』
あ、そうです松たか子です。太平洋戦争の戦況が悪化していくさなか、東京の下町にあるひとつの家を描いた回顧録。監督は山田洋二。
過去を振り返り、内面が明らかになり、そうだったんだー、とオチに繋がるのは邦画特有のお決まりパターン。というか小説原作だから余計にね。
太宰治みたいな、ドロっとした昭和初期の恋愛小説みたいな雰囲気があります。古すぎる作品が苦手な人はこういうところから入りましょう。
ベストセラー小説の映画化、興行的にも成功、『さまよう刃』
邦画って小説原作多いですよね。失敗するの怖いからね。しょうがないね。
寺尾聰さんです。さすがに名優です。俳優繋がりで別作品に派生するのオススメです。
売れに売れたベストセラーですが、原作読んでない人にも大丈夫な感じになってます。
でもやっぱり両方見て欲しいかな。どっちにも良さがあります。
原作は犯人に対してとにかく胸糞悪い感情を抱きましたが、映画は主人公に感情移入してから犯人に恨みを抱きました。映像化されると内面が可視化されやすいから、こういう点はメリットですよね。
全然関係ないですけど、邦画版『狼の死刑宣告』だと思っています。ベーコンのやつ。
こっから時代劇シリーズ『たそがれ清兵衛』『隠し剣鬼の爪』『武士の一分』
山田洋二監督の「時代劇三部作」と呼ばれています。原作がすべて時代劇小説の大家、藤沢周平ですね。
時代劇って小さいころに見ていた水戸黄門とか大岡越前の印象が拭えなくて、古臭い勧善懲悪のイメージを持っている人が多いと思うんですが
美術、小道具、ロケーション、徹底したリアリティのある舞台で撮られた作品で、時代劇が苦手な人でも楽しめると思います。
内容的にはモロにハードボイルドなもんで、男の美学とか鼻で笑っちゃう人もいるかもしれません。
でも木村拓哉が出演した映画で唯一『武士の一分』だけは好きなんじゃ・・・。イケ好かないイケメン侍がボロボロになって、泥臭く立ち回るシーンは「そうそう、中の人もこれくらい謙虚であれ」と思ってしまう。(斜に構えたキムタクが、斜に構えたまま活躍しちゃうなろう系作品が多いからね・・・。)
監督は違うけど、お気に召したら同じ藤沢周平原作の『必死剣鳥刺し』もオススメです。やたら高身長な色気ムンムンのトヨエツが女狐を成敗して、吉川晃司と大立ち回りする映画。池脇千鶴は嫌いじゃないけど、濡れ場はいらないです。ごめんなさい。
あとついでだけど、山田洋二監督と寺尾聰つながりで『雨あがる』も入れさせてください。バチクソに地味な映画です。サムライ好きじゃないと見れないですけど。
書いてみて思ったけど、やっぱり俳優とか監督とか原作とか、どこかが琴線に触れないと、邦画って観る気力がわかないですよね。
ぼけーっと見てるうちに「あれ、こんな人だったんだ」とか「ああ、こういう考えだからこうなったのね」くらい見えてくると、ちょっと楽しみ方が分かるかもしれません。
ハリウッド映画なら「ここはこの人がこう思ったから、こうなるんやで!」っていう手段でしかないんですけど、邦画はその感情自体が目的だったりするんです。
名画『レオン』でも、「少女が一人前のレディに成長する、ちょっと刺激的な冒険」と見ることもできれば、「冷徹な殺し屋が少女と出会うことで人間らしく生きるきっかけを得た」みたいな見方もできるわけです。
外側の派手なアクションシーンもいいんですが、こういう内面を見てひとりで悦に入るのもオツな映画の楽しみ方ですよね。(回収しそこねた伏線を無理やり最後に出していく)