映画『ウルフ・アワー』レビュー

ウルフ・アワー(原題:The Wolf Hour) 2019年アメリ

監督:アリステア・バンクス・グリフィン

主演:ナオミ・ワッツ

 

 ほぼ全編にわたってナオミワッツの一人芝居と下町アパートの一室で展開する内省的な芸術寄りの作品。*1処女作を絶賛されたものの、失脚して苦悩する女性作家が主人公。
対人恐怖症やら広場恐怖症やら、次回作が書けないスランプやら、徹底的に生きづらさが描写されていく。
さっさと出かけろ、新作を書け、とド正論でぶん殴れば砂粒も残らないほど粉砕されてしまうプロットではあるが、他人から見れば他愛もないことで真剣に悩むのが人間であり、悩みが正論で簡単に解決しないのが人生である。
ジョーズ』を見て「海に入るな」、『エイリアン』を見て「宇宙に行くな」と切り捨てるような愚かさである。

 

 連続殺人鬼に狙われるシチュエーションスリラーっぽく誘導する予告編が批判されていましたが
あらすじとか予告編に騙される方にも問題があるので、嫌な予感がしたらさっさと視聴を打ち切りましょう。

 

 70年代末*2のニューヨークを舞台に、社会が複雑に、より生きづらくなっていく様子や
創作者や表現者が抱える葛藤、女性であることの苦悩などが描かれてはいるものの
基本的には出会う人物や出来事が何かの暗喩であり、エンディングも受け手に委ねる後味の残る作品となっている。
こういう作品を主観的に「このシーンは**に対する皮肉や問題提起で~」とか言いきるのは恥ずかしいのでしたくないし
「監督に直接聞いたけど**が正解らしいよ」*3とか言うのも違うと思っているので、個人が感じた感想をそれぞれ読んだりして楽しむのが好きです。
以下私が思ったこと。

 

 作家にとって作品というのは、自身が持つもののアウトプットに他ならず
インプットされているもの以上の作品というのは作り得ない。
海洋生物の知識が無い人間が、海洋学の論文を書くことはできないし
包丁を使えない人間が、料理人になることもできない。
だからと言って、知識や経験を文字に起こして右から左にアウトプットするだけでは、作家たりえないのだとも思う。
とある作家が「自身の知識や経験を肥しに畑を耕し、できた”農作物”を売るべきであって、”肥しそのもの”を売ってはいけない」と言っていた。
今作の主人公が失脚した理由もまさにこの辺にあって、社会派ぶって批判し評価はされたものの、その実、やっていることは単なる自伝と私怨に過ぎなかったわけだ。
こういった底の浅さが世間に見抜かれた恥ずかしさと、失意の落差から引きこもりになってしまう。
スランプや不調というものは、大きく成長する時にしか起きないと言われている。
成長曲線とは直線的な右肩上がりではなく、上下しながら緩やかに上昇する。
その高度が上がるにつれ、沈む幅も大きくなり、人によってはそこに留まってしまう。
成功と失敗が表裏一体であるのと同様、不調と好調の波も季節のように廻っていく。
その冬の時代を耐え、春を迎えられるものだけが作品を発表し続けられる(≠成功する)作家となるのだろう。

 

 昨今ではパパ活と称して援助交際をし、市場価値が下がれば被害者の顔をしてその経験を売る女性を「二毛作」と揶揄するスラングがあるが
彼女たちのしていることこそ、ただの「肥し売り」なんだろうな、と愚にもつかないことを思いついてしまった。

 

*1:作品名のウルフ・アワーは作中のラジオ番組名から

*2:映画『ランボー』と同じくらいの時代設定ですね。

*3:特定の人物の批評手法を批判する意図は全くありませんので悪しからず