映画レビュー『歩いても 歩いても』

 前回『マイ・インターン』をなろう系小説と評して色んな方面にケンカを売っていったので、今回も勘違い視点から批評して敵を増やしていきたいと思います。

 皆さんは映画ジャンルのホラー、サスペンス、ミステリーについて正しい定義をご存知でしょうか?何となく怖いやつ、不安になるやつ、謎なやつ、と漠然な印象を持っている人も多いと思いますが、それで正しいです。

ホラーは語源の「恐怖心」から作り出されたジャンルで、見ている人を恐怖させる目的で作る作品、または見る人が怖がって楽しむためのもの。ゴアやスプラッタ描写でスカっとした爽快感を得る目的もあります。

サスペンスは「宙づり」という語源から、足元のおぼつかない不安定さを観客に与え、それ自体を楽しむこともあれば、安定したオチに繋げてカタルシスを覚えるためにも使われます。

ミステリはそのまま「謎」ですね。推理ものの謎解きから、シチュエーションホラー、心理サスペンスなど案外色んなものに当てはまります。

どれも共通して言えることは、その真逆に当たるものをオチに持ち込んでカタルシスを作り出したり、徹底して描写しつづけることで満足感を与えることが脚本にとっての要と言えるでしょう。

 では、現実に起こりえる恐怖や不安、謎というものはどうだろうか。どれもスカっとした解決がなされることは稀で、かと言って娯楽になるほど徹底されることもない。

「事実は小説よりも奇なり」とはよく言われるが、むしろダラダラと見え隠れするばかりで、しこりの様に残り続けストレスになるばかりなのがほとんどではなかろうか。

 

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『歩いても 歩いても』(洋題:Still walking) 2008年

監督:是枝裕和

主演:阿部寛樹木希林

 

監督は『誰も知らない』で一躍知名度を広げた是枝裕和監督。

徹底したリアリティと登場人物を満遍なく描写するスタイルが特徴的で、邦画らしい邦画を撮る監督だ。

正直なところ、若いころは地味でぱっとしない邦画をあまり好きではなかったが、この作品によって価値観を変えられたと言っても過言ではない。いや過言か。

名優の樹木希林を迎えて、たった一つの家族が小さな家の中で繰り広げる日常劇。まさに鬼気迫る演技を見せた彼女が、もうこの世に存在しないことが非常に惜しまれる。

 

 本作のあらすじはこんな感じ。

15年前に亡くなった兄の命日、夏の日。次男である横山良多(阿部寛)は妻と、その連れ子の3人で実家に帰省する。

盆を控えて実家には両親や姉家族も賑やかに集うが、みんなどこかギスギスとしている。

これだけ。ハッキリと言ってしまうが、大きな謎が解決したり、明確なハッピーエンドが待っているわけではない。

それでいて、一人また一人と殺害されたり宇宙人が襲ってきたりもしない。*1

しかしながら、本作の恐ろしさを指摘するレビューは少なくない。それほどじっとりと湿度を持って迫ってくる恐ろしさが、本作にはある。

親の願い、子の望み、醜いまでの家族愛。美しき残酷な現実。

 

 筆者は末っ子の長男であり、跡取りである。父も祖父も曽祖父も同じような職種を生業とし、設立された法人を継承している身だ。

男ながらに蝶よ花よと育てられてきた自覚はあり、その代償として親の望むように生きることを半ば強制されてもきた。

世間一般的には世襲を批判する向きもあるだろう。誰だって無能に権力を与えたくはない。しかし自らの志を、血を分けた子供に引き継いでほしい、というのも無視できない親心と言えよう。

そして一度親から託されれば、全霊を注がざるを得なくなるというのが子供というものだとも思う。

本来、夢だの野望だのを口にするからには自身一代、本人のみで完遂する覚悟を持ってしかるべきもの。

子に託せばいいなどとは沙汰の限り。それは最初から己の器量に余る夢であったのだと省みるべきでしょう。

沙村広明無限の住人』より

 

本作は 親と子の「絆」を描いた作品であると言えよう。しかし「絆」とは本来、家畜を繋いでおく手綱のことを指す。

切っても切れない、特殊な関係性。親子は一世、夫婦は二世の深い関係性を持つと言われるが、なるほどその深さがうかがい知れる言葉だと思う。

はじめてこの映画を見た時には、作品の持つリアルさとテーマの残酷さから震えた記憶がある。『刑務所の中』にも同様の感想を持ったが、身近である点という意味では本作の方が格段に上であろう。

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 とにかく怖いカーチャン。母親はいくつになっても怖い存在なのだ。

 

 樹木希林が演じる母親は、どこにでもいる専業主婦だと言えるだろう。

開業医である夫を支え、たまにしか顔を見せない子供に愚痴を言い、孫を可愛がる。そして亡くした息子をいつまでも、いつまでも惜しむのだ。

考えてもみてほしい。長年連れ添った夫へ「弁明できないことを分かっていながら」呪いの言葉を吐き続け、立派に成長した次男へ難癖をつけては「故人である長男と比較する」のだ。

これはある意味で妻であり母である横山とし子という女性の復讐物語だ。何十年にも積み重なった怨みが愚痴の中に込められている。これほどじめじめした恐怖感を、Jホラーと呼ばずして何と呼ぶのか。

 そして身近にいながら、いつまでも変わらず妻で、母親であったはずの人間が、目の前で認知症のような症状でも見せようものなら。何か大切なものが壊れてしまった喪失感を覚えないだろうか。

 作中でとし子はしょっちゅう愚痴をまき散らす。それこそ毒を吐くように、憚ることなく。こういった行動は、典型的な被害者アピールだ。自分の不遇さを分かってほしくて、肯定してほしくて、止められない。そしてそれが余計に周囲との軋轢を生む。

ただそこに、一抹の希望があるとも言えるだろう。理不尽な怒りは、家族だからこそぶつけられるのだ。赤の他人にまで同じことを求める人はいない。相手をある程度まともな、反応してくれる人間だと認めているからこその行動なのだ。

 

 私はこの作品を、初めて見た時からホラー映画だと定義している。

私たちが普通に生活しているこの世界にも、あなたの知らない闇が潜んでいる。都市伝説の常套句であろう。

姉を演じたYOUも、実に無責任で迷惑な存在として機能している。そしてそんな姉もまた、人知れず子供を虐待し、死に至らしめているのかもしれないのだ。(是枝裕和監督『誰も知らない』でYOUは育児放棄をした母を演じている)

 非常に狭くニッチな世界を、広い視点で描く監督の手腕。これぞ映画と言えないだろうか。まだまだ邦画も捨てたものではないですね。(唐突な身内擁護)