リアリティ(笑)
『リアルである必要はない、しかしリアリティは追及せよ』
これは私が特定の作品を評価したり、また創作するときに考慮する最も重要なテーマとしている。(特にゲームと映画)
娯楽作品は結局のところ好き嫌いの話であって、何を好きになるかは人それぞれだ。銃が出てくれば興奮する人もいれば、恐怖や嫌悪感を抱く人もいる。小さなパーツひとつひとつに是か非かを問うのは目的に対して直接的に寄与しない。目指すターゲットに応じて変えればよいだけの話だ。
では好きになってもらうには、嫌われないためには何が必要か。ターゲットに応じたパーツのリアリティである。
誰だって好きなものを雑に扱われれば良い気持ちはしないのだ。
ここでいう「リアル」と「リアリティ」の定義について、語らねばなるまい。
前者は本物そのものであり、後者はそれに近いもの。例えば映画のグロ描写を例にとってみよう。前者は俳優自身が流血する必要があるが、後者は血糊や豚の血液で代用できる。
「現実」と「現実らしさ」、本物である必要はないが、本物に近ければ近いほどリアリティがある(高い)と定義する。*1
この現実らしさを高める上において、避けては通れないのが「じゃあ現実って何よ?」という問いである。
銃で撃たれた人間を、よりリアリティある描写にするべく特殊メイクを駆使して見事な血しぶきを表現するとする。
そうすると「実際はあんな風に血しぶきが出たりしない」とか「今チャンバーに弾ない状態で撃ったよね」とか「あの距離で撃って当たるはずがない」という批判が出てくることが、ままある。
それぞれ映画的に都合のよい合理的説明をしてみよう。
・実際はあんな風に血しぶき出ない
→その「実際」とやらを知ってる人が、視聴者にいったいどれくらい存在するのか?単純な娯楽作品として演出の見栄えと、現実らしさを追求した結果の血しぶき量であり、よりエンタメ性を上げるなら量を増やし、見る人が伝説の傭兵しかいないのなら、量を減らすだろう。
・チャンバーに弾おくる演出カット
→すべての描写が行われなければならないのであれば、登場人物が出生するところからスタートせねばなるまい。描かれている演出は必要だから映っているのであって、必要なければ映っていない。当然の帰結である。
大体、ちゃんと見てれば分かるようなことを見落とす奴に限って細かいことにイチャモンをつける。あるものを見落とすような人間が、ないものの瑕疵を咎める権利はない。
・あの距離で
→そりゃあ成功しない場合もあるでしょう。100%成功する行動だけが映っているものに果たして価値はあるのだろうか。お前が見ているのは、成功した場合の世界線なんだ。
色々とツッコミはあるし、それに対する反論も色々ある。もちろん上記の内容にも一家言お持ちの映画好きは多いだろう。しかしながら、共通しているのは「そういうものとして見れるかどうか」であり、それができる人間だけがその作品を好きだと支持するのだ。
結局のところ万人に好かれる作品を作るということは、万人がそういうものとして見れるように工夫されているかどうかだけだ。
映画を見ていて「現実だと仮定しながら見ている」という感覚は人によって賛同できない意見かもしれない。中には「現実じゃないからいいんじゃん」という人もいるし、事実リアリティのかけらもない作品を好む人も少なくない。
だが、本物ではないのに本物として振る舞う能力は人間には昔から備わっている。存在しない神を存在するという体で誤信仰し、文化を育んだように
あるいは存在しないことを表すゼロという記号を生み出して認識できるように。
爪も牙も持たないヒト種において、絶滅したネアンデルタールとホモサピエンスを隔てたものは、言語能力や共感能力、そして抽象的思考能力と言われている。
分かりやすくかみ砕けば、想像力とも言い換えられる。狩猟や戦闘において多くの兵器を作りだし、道具や戦術を工夫してきたのは抽象的思考能力から生み出された想像力である。
当然、経験則からのトライアンドエラーもあるだろうが、より効果を狙って工夫するからには経験していない領域を想像する力を求められる。より相手の嫌がる戦術を用いるため相手の思考を想像し、起こりうる未来を想定し、それを味方と共有する。
そして文化が生まれ、芸術が生まれ、それは壁画に残る抽象画として現代に受け継がれている。
人類の歴史は現実ではない「何か」、未来とか虚像とかそういったものによって生まれたのだ。
・・・つまり何が言いたいかというと、キャプテンアメリカでドイツ軍が英語喋ってても私はぜんぜん気にならないよ、ってことです。結構昔からこの手の議論はされてるんだけど*2、最近は開き直って全編同じ言語で統一することが主流になりつつあります。そのほうが撮影するの楽だし客も喜ぶだろ。
1990年の映画「レッドオクトーバーを追え」では、主演のショーンコネリーがソ連の軍人を演じながら、それぞれロシア語と英語を使い分けています。冒頭で人物紹介を兼ねたシーンではロシア語、やがて物語が本格的になるにつれ、ロシア語はフェードアウトしていつの間にか全員英語を喋るように。
このラミウス大佐という人物は、実はバリバリのロシア人でありながらこっそり英語が喋れるという設定なので、後半で米軍と会話する際はしれっとロシア語に戻りつつロシア訛りの英語になったりと忙しいです。これはショーンコネリーが全編ロシア語を話す労力であったり観客への配慮ということもあるのでしょうが、*3リアリティを損なわないようにギリギリまで配慮した苦労が垣間見えるエピソードだと思います。
あと第二次世界大戦で黒人と日系人の米軍について。こういうのってリアルタイムで見てると「まーたポリコレかよ。エンタメくらい好きにさせろや」って思いがちですが、恐らく5年後に見たら気にならないと思います。
特にアメコミヒーローの映画って時代の変化を映しやすくて、1989年~のバットマンシリーズと、2005年~のバットマンとでは、バットマン自身を描く方向性がまるで違うのに、どちらも抵抗なく見られます。それは時代を反映したものとして「そういうものだ」と見ることができるから。
今は極端なポリコレブームに辟易しているけれど、時代に体が慣れてそういう見方を覚えてしまえばまったく気にならなくなります。逆に当時の時代背景が分からないくらい古くなってしまうと、何じゃこりゃって思ってしまうけど。
以上が私の考えるリアリティの大切さと、人によって違うリアリティの匙加減の話でした。
ちなみに後半の類人猿云々のくだりはハッタリです。それっぽいこと言ってるけど全部にわか知識。
それっぽく見えたとしたら、それがリアリティの成せるものだと思っていただいて私は一向に構わん。
急速に訴求力を失う本
私は読書家としては結構恵まれていた。*1
小~中学生の時分にはお気に入りの作家もいたし、行きつけの本屋もあった。
新刊の情報をインターネットで仕入れる方法も知っていたし、感想をぶつけ合う人もいた。
娯楽に飢える田舎育ちなため、本を読むための物理的な時間を持っていたし
絵本やジュブナイルで鍛えられた最低限の読解力も持っていた。
にも関わらず、最近はほとんど本を読むことがない。
本の持つ絶対的な価値が薄れたとは思えない。変わったのは相対的な、自分の中での本という立場だろう。
読書によって得られるメリットについては、枚挙に暇がない。
偉大なる先人は数多くの「読書によって得られる人生の幸福論」について語っているし
条件さえ揃えば本はきちんと売れている。増えてしまったのは本を読むことのデメリットだ。
恐れ多くも掲げたい、読書にしか起こり難いメリットを「薫習」に例えてみたい。
本来は仏教用語だが、大乗仏教や茶道華道などの行儀作法にも用いられる。
曰く「香を薫ずるが如く匂いが染み着いて残り続け、顕れること」とでも定義できようか。
確かな手順で時間をかけて身につけたものは、自らの血肉となりうる。
強烈で即物的な情報や習慣は、強い匂いを植え付けたとて、容易に消え去ってしまう。
読書とは読んでいる時間だけではなく、読む前の能力を問われ、もちろん読み続ける時間や労力を要求され、多くのリソースを奪い取っていく。
知識獲得の効率としては良いとは言えないだろう。
しかし、多くのリソースを割いて血肉となった経験値は確かに顕れる。
さながら日々のトレーニングで筋繊維が増大するように、さながら堅実に運用した資産が増殖を続けるように。
現代人は重いものを運ぶ必要がなくなってしまった。筋肉を肉体美だと考えなくなってしまった。
宵越しの金を望まぬ人は増え、ググれば一瞬でメイクマネーできる時代だ。
薫じられた香りは鳴りを潜め、香水による人工的な合成香料で武装した現代人は
嗅覚をも衰えさせて悪循環を続けていく。
時代が必要としていない、あるいは要請される条件を満たせなかった、そんな批判は簡単だ。
世の中にはたった一つの要素が抜け落ちただけで、その同一性を保てなくなる分野は確かに存在する。
その存在を維持させるために読者を迎合して自らを作り替えていくものを、人はテセウスの船と呼べるのか。
*1:「家」と言えるほど読んではいないが。
お題その10~12
エアガン、ガスガン、電動ガンは持ってるけど、モデルガンはひとつも持ってないのよね。
弾が出ない銃を買うのなら、やっぱり一番好きな銃がいいんじゃないでしょうか。
壁に飾ったりする用途なら長物だし、手に持ったりして楽しみたいならハンドガンとか。
サバゲはほぼ未経験なので、そういうのは中川くんに聞いてね。
ちなみに中川くんは「次世代M4(即答)」だそうです。
メシマズ嫁の対処って難しいよね。別にメシマズではないんだが・・・というラインの人もかなりの数いそう。
何が難しいって、やっぱり「作ってもらってる」立場なわけじゃないですか。
相手が「作ってやってる」って思うのは違うと思うんですけど、それでも「じゃあ自分で作れ」って開き直られたら対処に困るし。
世の中にはね、いますよ。平気で「ウチの旦那もっと稼ぎがあればなぁ」って言う人。
そういう人にはハッキリ言ってやればいいと思うんですよ。「お前の家事レベルではこの程度の稼ぎにしか嫁の貰い手ないぞ」って。
だから一番大変なのは悪意のないメシマズ。「大好きなダーリンの為にひと手間加えちゃうぞ☆」ってやつ。
加えるのは無味無臭の愛情だけでいいので、余計なことはしないでほしいものだが、世の中には時間をかければかけただけ、手間を加えれば加えただけクオリティが上昇すると疑わない人もいるんです。
個人の達成感とか満足感を成果に持ち込むのはモノづくりとしてのタブーなわけですが、一介の主婦にそんなことは通用しないわけで。
だから注意すべきことは「これはこれで美味しい。だけど俺の好みは~だな」とか
「今度はこれと違うタイプを俺が作るよ」とか、決して相手を否定しない言い方で正解に誘導することです。
自分では否定になっていないつもりでも、女性は人格の否定とまで受け取るケースは往々にしてあるので、細心の注意を払いましょう。
相手はあなたの部下でも同僚でも友人でもありません。人生のパートナーなのです。
「有り難う」の反対語を知っていますか?「当たり前」なのです。
本来「有ることが難しい」からこそ、感謝するのであって、帰宅してご飯が出てくるのは当然のことではないのです。
だからこの大地と嫁に感謝をしましょう。高名なプロゲーマーも言っています。感謝です。
ちなみにウチの嫁はメシマズではありません。決して。
おすすめの本に関してなのですが、このあいだ偉そうなことを言っておいて、最近プライベートでほとんど活字を読んでおりません。
お題その9「人生で一番ヤベェと思った人」
これわざわざ画像キャプチャして貼り付ける意味あるん?いや知らんがな。
お題いっぱい来てたからまとめようと思ったけど、これだってのが思いつかないので全部書く。
吉祥寺に遊びに行って、始発の中央線で帰宅途中のこと。
目の前に座ってるOL風の女性がすごい形相で顔をしかめて隣の車両に移動したので
何だろう?と思って横向いたら、オッサンが電車内で立ちションしてたこと。
大学時代の後輩(ガチホモorバイセクシャル)の彼女が、何度電話しても彼氏が出ないので
アパートに直接出向いたら、彼氏がバイブでアナルオナニーをしてたと聞かされたこと。
深夜に友達と北区の王子へ散策に行ったときのこと。
帰りに荒川と隅田川に挟まれた謎の三角州(友達曰く、埼玉の出島 aka 埼玉難民キャンプ)を歩いていたら
酔っ払いのオッサンと高校生くらいのガキ2人が路上にいたので、真横を通り過ぎつつ聞こえてきた内容。
ほぼ泥酔状態のオッサン「やめろよー」
高校生くらいのガキ「オッサン金出せや」
ヤベェ奴のほとんどが埼玉県人だったわ。
お題その8
「そういえばお題箱なるものを設置していたなぁ」と思い立ち、確認してみたらひどいことになっていた。
2週間以上も放置してしまっていたのですね・・・ごめんなさい。
その人にとっての日常が、なんでもないかどうかは主観に依るところであり
同様にその文章を面白いと感じるかどうかも主観なのである。
すなわち、誰かにとって面白い日常とは、誰かにとってなんでもない日常であり
その事実を工夫や書き方で変えるなどと大それたことは、考えないほうが賢明である。
クソどうでもいいことを4行に分けて書いてみました。クソどうでもいいアウトプットをできる訓練をしましょう。
クソどうでもいいアウトプットは、その存在はクソどうでもいいのだが、とりあえず文字数を稼ぐことには役に立つ。
面白いか面白くないかは主観だとすでに書いた通りだが、文字数がゼロなら、面白い文章もゼロだ。これは客観的な事実である。
要するに現実をたくさん文字に変えていき、クソどうでもいい脚色を加えてどんどん量産していけば
おのずとその中のどれかは奇跡的にそこまでどうでもよくない文章になる。
物事を達成することに時間をかけることを恐れてはいけない。無駄で遠回りなやり方も経験と割り切れば糧になる。
さあ漕ぎだすのです。現実と文字の限界無き世界へ。そして絶望するのです。自分の語彙力の低さに。
どうですか?いっぱい文字が並んでいますか?それでは推敲をして明らかにクソどうでもいい部分や、面白くない文章は削除していきましょう。
言いたいことを書いているのに、上手く表現できていないところは改善しましょう。
順番を変えたり、導入を変えるだけで伝わりやすくなったり、もっと面白く伝わることもあります。
ちょっと待ってください、限界まで推敲を続けるとただの事実の列挙になっていませんか?そうです、大事なのは脚色、演出、言い回しの妙なのです。
読ませる文章になること、人を引き込む文章、それはアウトプットの反復では得ることが難しいのです。
それでは次のステップ、文章をインプットしてみましょう。
面白い日常を書きたいのなら、面白い日常を読めばいいじゃない。
アントワネットはいいことを言いますね。
最近読んで面白かったブログはこんなの。
この記事はまごうことなき「なんでもない日常を面白く読むことができる」と思う。
表現が偏りすぎることなくバラエティ豊かで、それでいてある程度の長さを理解しながら読み進めることができる。
書き手に「地力」があるから面白く読めるのだ。このアウトプットは、インプットによって支えられている。
正直なところ、書く能力というのは読む能力に恐ろしく比例する。
30点の文章を書くだけでも、50点以上の文章は読めていないと話にならない。
謙虚に「60点くらいの文章が書きたいなあ」と思うのなら、80点以上の文章は読んでおきたい。それも膨大に。*1
純文学、娯楽文学、評論、哲学、歴史、詩集、ジャンルは問わない。むしろ読んだ本の冊数より、ジャンル数のほうが重要かもしれない。
日常にドラマティックな展開があったり、そういう表現をしたければ娯楽小説から
哲学的な問いを文章に臭わせたいなら、思想書などから
日常をポエティックに表現したければ、詩歌から引っ張ってくればいい。
色んな種類の武器を持っておけば、状況に応じて使い分けできる。武器は数も大事だけど、種類も大事だよ。
いっぱい書け。いっぱい読め。結局当たり前でクソどうでもいいことを列挙したにすぎないので
最後に裏技というか、困った時にやる手法を置いておきます。
文章はある程度書いていると、その人独自のリズムや流れができてくる。大なり小なり誰でも持ち合わせているはずだ。
「上手くいっていない」と判断したら、一度最初から書き直してみるのも手だ。
いいオチまで到達しない時や、伝えたいことを言語化できないときに冒頭や導入部分の切り口を変えて再スタートしてみよう。
リズムや流れる方向が変わったことで、違う結果が生まれる。
まして導入の与える印象は強烈だ。娯楽作品でなくとも、同じ事実でありながら、読み手に違った印象を与えるものだ。
ちなみにこの記事ももっとシンプルな文章指南から「その人にとっての日常が~」というクソどうでもいい文章の導入に書き換わっている。その方がより実践的に見えたので。
最後に、以前講演で使ったことのある導入文章の秀逸例はこれ。
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。
目に入った瞬間、「自分にとってのさびしいという感情の定義」を考えさせられ
同時に「鳴るとはなんだ?」と興味をそそられる。
難しい年ごろと言われがちな、少女の難しさを、この冒頭から一瞬で表現できているのは凄い。
初めて読んだ時は声に出して唸った。
こういう完璧な導入の仕方、してみたい。全部は完璧じゃなくてもいいから。さいあくおもしろくなくてもいい。
*1:分かりづらい表現だなぁ。100点の文章ってなんだよ。
不意を突かれた
お盆直前まで29連勤くらいしてきた反動で、9月末まで仕事がなくなってしまった。
定期的な小さい仕事もあるし、飛び込みで大きな仕事も入るのだが
目下のところ、急いで片づけなければいけない原稿はひとつもない。
この長い長い盆休みを有意義に過ごすべく、溜まった映画のマイリスト(いつか見ようと思っていた映画リスト)を消化するべく重い腰を上げたのだが
意外や意外、ひとつめから傑作に当たってしまった。
20011年公開、WARRIOR
監督はギャヴィン・オコナー
ベンアフレック主演で独特なアクション映画「コンサルタント」を撮った監督です。
ウォーリアーというこの映画、スポーツドラマ映画と銘打たれていて
いわゆるロッキー系の格闘技とドラマ性のカタルシスを同時にぶつけて2倍オイシイみたいなエンタメ映画だと思っていたのだが
2時間の作品中、最初の1時間は父親と二人の息子が延々とドロドロしつづける展開が続く。
そんでもって、作品中盤から唐突に「レディースアンドジェントルメーン」と試合当日の華やかなシーンへと入れ替わる。
カタルシスロケットを発射するための燃料準備はほとんどないのだ。
延々とシャドーボクシングしたり、体重制限やカロリー制限はおろか、長距離の走り込みシーンもほとんど描かれない。
それもそのはずで、弟であるトミーは超ハードパンチャー。
従軍経験のある現ホームレスみたいなキャラで、現役のプロ格闘家をほぼワンパンで沈めていく。原動力は怒り。それだけ。
兄であるブレンダンは、冴えない元プロ選手であり現在は教師をしている。
家のローンと娘の医療費に困って賞金目当てで復帰するが、しぶとく立ち技を耐えて寝技でタップを奪う職人。
正反対の兄弟と、アルコールで家庭を壊した罪を背負う父親との、3人がメインとなっている。
誤解を恐れずに言えば、この映画の派手な会場や観客、実況解説はすべて飾りだ。
リングの上で戦うのはロシアから来た人類最強のチャンピオンでもなんでもなく、親子ゲンカと兄弟ゲンカなのだ。
人は、どれだけ努力をすれば「頑張ってるね」と認めてもらえるのか。
人は、どれだけ罰を受ければ「罪を許そう」と言ってもらえるのか。
そういう客観的に数値を出せない、人それぞれのラインというものを
登場する兄弟や親子の物差しで定義していくのがこの映画だと感じた。
父親であるパディがアルコールを断って1000日が経過するのだが、映画を盛り上げるには禁酒を破る展開があるに違いない・・・と思っていただけに
このタイミングでかよ、と本当に悲しかった。野菜炒めを食べながら見ていたのだが、ボロボロと泣いた。
アメリカはアル中の恐ろしさをこれでもかと映画で見せるにも関わらず、簡単に人をアルコールの魔力に引きずり戻す。ひどいよ。
メインテーマが家族問題であるだけに観客たちはカヤの外だが、兄ブレンダンの奥さんもカヤの外だった。
この奥さん、夫が格闘技に復帰すると知るや否や猛烈に反対する。
家の家計を助けるためにバイトを掛け持ちしているが、夫がケガするのは見たくないのだ。
散々ヒステリックに騒ぎ、試合も見ないと断言したが、決勝当日には観客席でヒョッコリと応援している。
生徒とかもそうだけど、この試合すげー賞金のついたすげーイベントのはずなんだが、なんでみんなチケットとれたんだろう。
HIPHOPや格闘技、一般的に男の世界と言われる業界では、男女差別が批判されがちだ。
体育会系的な社会性、ホモソーシャル的な一面が女性に不公平性を強いていることは理解できる。
理解できるが、相手を理解していないのは女性も同様だ。
表面からはうかがい知れない、男特有の行動原理を冷や水かけて台無しにする女性には、公平性をとやかく言う権利はない。
それぐらいこの映画において妻のテスはカヤの外だった。
サッカーフリークの会話に、W杯のときだけすり寄ってくるにわかサッカーファンとでもいうのか、なんでお前の相手をせなアカンねん、という雰囲気がしてしまう。
受けなくてもよい理不尽を受ける女性は多い。そのほうが圧倒的だ。
しかし、差別というよりそもそも相手にされていないことを差別がどうのと言い出す女性もいる。
なぜか終盤からミソジニー擁護になってしまったが、それくらい暑苦しい男のケンカ映画でした。
本来ならこういうステレオタイプのマチズモ映画は好きではないんだけど
MMAにかこつけた家族ドラマというのに不意を突かれてしまった。
この記事でこの映画を見たいと思う人はいないと思うが、もし見てもらえれば
「あ、男の映画やなこれ」と理解してもらえるはずだ。
映画の吹き替え問題
特定の俳優や配給会社を貶める意図はないことを明記しておく。(無用な業界向けアピール)
この画像にも何ら恣意的な意図はありません。
話題作りのために映画の吹き替えを有名俳優やアイドルにやらせることはままあるが、大抵の場合総スカンを食らう。にも関わらず業界はそのやり方を変えるつもりはないのだが、それもそのはずで目的は別のところにあるものだ。
よくアニメや漫画の実写化も批判を受けることがあるが、制作側はそんなこと知ったことではない。世の中には「アニメである」というだけで物語として一段も二段も下に見たり、視聴する気になれない(感情移入できない)人というのが存在するし、逆に実写であるというだけで、先入観なく見られる人というのも存在する。業界はそういう「本来なら視聴しない客層」に向けているので、原作ファンやアニメ好きからの意見はそもそも考慮していない。
洋画の吹き替えでも同じことが言え、とにかく興行収入が増えれば何でも良いのだ。世の中には15文字を6秒かけて読んだり理解することができない人というのが存在するし、音声が外国語というだけで感情移入できない(内容を理解できない)人というのが結構な数いる。後者は何となく理解できる。フランス語は聞いているだけで眠くなるし、韓国語は聞くに堪えない。日本語は聞き取りづらいし、中東になるともはや言語というより呪文だ。
しかしながら、オリジナルの音声というのは俳優の持つ立派な能力であり、セリフは脚本家が作ったものにせよ、発しているのは俳優自身だ。キャスティングの過程で声質が判断基準になることも珍しくなく、重大なキャラクター属性やトリックに関わってくることもある。実際に撮影していく過程で、セリフのちょっとした抑揚ひとつで撮り直しになることも多い。それだけ演技における声、話し方というものは重要なのだ。
では、なぜ演技力が決して劣っているわけではない俳優が吹き替えを行うと違和感が生まれてしまうのか?理由は様々ある。アイドルや歌手などのそもそも演技力が無い人は言うに及ばないが、俳優の中にも色々ある。舞台出身か出演は主にドラマか映画か、声だけの仕事経験の有無など。
演技力は確か(であるはず)なのに吹き替えとして微妙とされる俳優の大半は「ドラマ俳優」であることが多い。日本のドラマは見る者の能力を問わない。良く言えば分かりやすく、即物的な娯楽だ。悪く言えば視聴者を舐めているし、考証に関しても雑でドラマ性が最優先される。予算などの制限もキツい。
そうした中で求められる演技力というのは、人物を表現する細やかな仕草などではない。カメラワークで何とでもなるからだ。感情を表現する抑揚なども必要ない。音声は完璧に編集され、台詞で描写がなされる。これが舞台ならばそうはいかないので、自然と声の持つ比重が大きくなるが、ドラマではその素地は育たない(必要ない)だろう。
優れた俳優というのは、あらゆる小技を使う。瞬き、目線、脚本に明文化されない間、発せられない声。つまるところ受け手が得る情報量の数がとんでもなく多い。勿論それは作品の本質を阻害せず、調整できることが望ましい。
同様に優れた声優も、音声だけという限られた媒体にあらゆる小技でもって情報量を増やしている。それは人間の持つ能力故だろう。「目は口ほどに物を言う」などと言われるが、目に限らず人間は自然と他人の感情や思いを推しはかろうと、読み取る努力をする生き物だ。表情や動きが読み取れない声だけならば尚更だ。
結局のところ、話題になるほどの俳優であるほど知名度が高く即物的なドラマ俳優であることが多く、その知名度が故に先入観が余計な情報となって作品の視聴を阻害することが往々にしてある。
映画とは、自分とは違う人間の人生を見るものだ。そしてその制作には多くの人間の努力が詰まっている。作品に真摯に向き合うのであれば、また作品を最大限に楽しんで視聴したいのであれば、初見くらいはオリジナルの音声で視聴することをお勧めする。
何度も見た懐かしい海外ドラマや映画を往年の声優で見るのも、また一興なのだけどね。
懐かしのテレ朝版ダイハード。ナチ・ノザワ。