急速に訴求力を失う本
私は読書家としては結構恵まれていた。*1
小~中学生の時分にはお気に入りの作家もいたし、行きつけの本屋もあった。
新刊の情報をインターネットで仕入れる方法も知っていたし、感想をぶつけ合う人もいた。
娯楽に飢える田舎育ちなため、本を読むための物理的な時間を持っていたし
絵本やジュブナイルで鍛えられた最低限の読解力も持っていた。
にも関わらず、最近はほとんど本を読むことがない。
本の持つ絶対的な価値が薄れたとは思えない。変わったのは相対的な、自分の中での本という立場だろう。
読書によって得られるメリットについては、枚挙に暇がない。
偉大なる先人は数多くの「読書によって得られる人生の幸福論」について語っているし
条件さえ揃えば本はきちんと売れている。増えてしまったのは本を読むことのデメリットだ。
恐れ多くも掲げたい、読書にしか起こり難いメリットを「薫習」に例えてみたい。
本来は仏教用語だが、大乗仏教や茶道華道などの行儀作法にも用いられる。
曰く「香を薫ずるが如く匂いが染み着いて残り続け、顕れること」とでも定義できようか。
確かな手順で時間をかけて身につけたものは、自らの血肉となりうる。
強烈で即物的な情報や習慣は、強い匂いを植え付けたとて、容易に消え去ってしまう。
読書とは読んでいる時間だけではなく、読む前の能力を問われ、もちろん読み続ける時間や労力を要求され、多くのリソースを奪い取っていく。
知識獲得の効率としては良いとは言えないだろう。
しかし、多くのリソースを割いて血肉となった経験値は確かに顕れる。
さながら日々のトレーニングで筋繊維が増大するように、さながら堅実に運用した資産が増殖を続けるように。
現代人は重いものを運ぶ必要がなくなってしまった。筋肉を肉体美だと考えなくなってしまった。
宵越しの金を望まぬ人は増え、ググれば一瞬でメイクマネーできる時代だ。
薫じられた香りは鳴りを潜め、香水による人工的な合成香料で武装した現代人は
嗅覚をも衰えさせて悪循環を続けていく。
時代が必要としていない、あるいは要請される条件を満たせなかった、そんな批判は簡単だ。
世の中にはたった一つの要素が抜け落ちただけで、その同一性を保てなくなる分野は確かに存在する。
その存在を維持させるために読者を迎合して自らを作り替えていくものを、人はテセウスの船と呼べるのか。
*1:「家」と言えるほど読んではいないが。