リアリティ(笑)
『リアルである必要はない、しかしリアリティは追及せよ』
これは私が特定の作品を評価したり、また創作するときに考慮する最も重要なテーマとしている。(特にゲームと映画)
娯楽作品は結局のところ好き嫌いの話であって、何を好きになるかは人それぞれだ。銃が出てくれば興奮する人もいれば、恐怖や嫌悪感を抱く人もいる。小さなパーツひとつひとつに是か非かを問うのは目的に対して直接的に寄与しない。目指すターゲットに応じて変えればよいだけの話だ。
では好きになってもらうには、嫌われないためには何が必要か。ターゲットに応じたパーツのリアリティである。
誰だって好きなものを雑に扱われれば良い気持ちはしないのだ。
ここでいう「リアル」と「リアリティ」の定義について、語らねばなるまい。
前者は本物そのものであり、後者はそれに近いもの。例えば映画のグロ描写を例にとってみよう。前者は俳優自身が流血する必要があるが、後者は血糊や豚の血液で代用できる。
「現実」と「現実らしさ」、本物である必要はないが、本物に近ければ近いほどリアリティがある(高い)と定義する。*1
この現実らしさを高める上において、避けては通れないのが「じゃあ現実って何よ?」という問いである。
銃で撃たれた人間を、よりリアリティある描写にするべく特殊メイクを駆使して見事な血しぶきを表現するとする。
そうすると「実際はあんな風に血しぶきが出たりしない」とか「今チャンバーに弾ない状態で撃ったよね」とか「あの距離で撃って当たるはずがない」という批判が出てくることが、ままある。
それぞれ映画的に都合のよい合理的説明をしてみよう。
・実際はあんな風に血しぶき出ない
→その「実際」とやらを知ってる人が、視聴者にいったいどれくらい存在するのか?単純な娯楽作品として演出の見栄えと、現実らしさを追求した結果の血しぶき量であり、よりエンタメ性を上げるなら量を増やし、見る人が伝説の傭兵しかいないのなら、量を減らすだろう。
・チャンバーに弾おくる演出カット
→すべての描写が行われなければならないのであれば、登場人物が出生するところからスタートせねばなるまい。描かれている演出は必要だから映っているのであって、必要なければ映っていない。当然の帰結である。
大体、ちゃんと見てれば分かるようなことを見落とす奴に限って細かいことにイチャモンをつける。あるものを見落とすような人間が、ないものの瑕疵を咎める権利はない。
・あの距離で
→そりゃあ成功しない場合もあるでしょう。100%成功する行動だけが映っているものに果たして価値はあるのだろうか。お前が見ているのは、成功した場合の世界線なんだ。
色々とツッコミはあるし、それに対する反論も色々ある。もちろん上記の内容にも一家言お持ちの映画好きは多いだろう。しかしながら、共通しているのは「そういうものとして見れるかどうか」であり、それができる人間だけがその作品を好きだと支持するのだ。
結局のところ万人に好かれる作品を作るということは、万人がそういうものとして見れるように工夫されているかどうかだけだ。
映画を見ていて「現実だと仮定しながら見ている」という感覚は人によって賛同できない意見かもしれない。中には「現実じゃないからいいんじゃん」という人もいるし、事実リアリティのかけらもない作品を好む人も少なくない。
だが、本物ではないのに本物として振る舞う能力は人間には昔から備わっている。存在しない神を存在するという体で誤信仰し、文化を育んだように
あるいは存在しないことを表すゼロという記号を生み出して認識できるように。
爪も牙も持たないヒト種において、絶滅したネアンデルタールとホモサピエンスを隔てたものは、言語能力や共感能力、そして抽象的思考能力と言われている。
分かりやすくかみ砕けば、想像力とも言い換えられる。狩猟や戦闘において多くの兵器を作りだし、道具や戦術を工夫してきたのは抽象的思考能力から生み出された想像力である。
当然、経験則からのトライアンドエラーもあるだろうが、より効果を狙って工夫するからには経験していない領域を想像する力を求められる。より相手の嫌がる戦術を用いるため相手の思考を想像し、起こりうる未来を想定し、それを味方と共有する。
そして文化が生まれ、芸術が生まれ、それは壁画に残る抽象画として現代に受け継がれている。
人類の歴史は現実ではない「何か」、未来とか虚像とかそういったものによって生まれたのだ。
・・・つまり何が言いたいかというと、キャプテンアメリカでドイツ軍が英語喋ってても私はぜんぜん気にならないよ、ってことです。結構昔からこの手の議論はされてるんだけど*2、最近は開き直って全編同じ言語で統一することが主流になりつつあります。そのほうが撮影するの楽だし客も喜ぶだろ。
1990年の映画「レッドオクトーバーを追え」では、主演のショーンコネリーがソ連の軍人を演じながら、それぞれロシア語と英語を使い分けています。冒頭で人物紹介を兼ねたシーンではロシア語、やがて物語が本格的になるにつれ、ロシア語はフェードアウトしていつの間にか全員英語を喋るように。
このラミウス大佐という人物は、実はバリバリのロシア人でありながらこっそり英語が喋れるという設定なので、後半で米軍と会話する際はしれっとロシア語に戻りつつロシア訛りの英語になったりと忙しいです。これはショーンコネリーが全編ロシア語を話す労力であったり観客への配慮ということもあるのでしょうが、*3リアリティを損なわないようにギリギリまで配慮した苦労が垣間見えるエピソードだと思います。
あと第二次世界大戦で黒人と日系人の米軍について。こういうのってリアルタイムで見てると「まーたポリコレかよ。エンタメくらい好きにさせろや」って思いがちですが、恐らく5年後に見たら気にならないと思います。
特にアメコミヒーローの映画って時代の変化を映しやすくて、1989年~のバットマンシリーズと、2005年~のバットマンとでは、バットマン自身を描く方向性がまるで違うのに、どちらも抵抗なく見られます。それは時代を反映したものとして「そういうものだ」と見ることができるから。
今は極端なポリコレブームに辟易しているけれど、時代に体が慣れてそういう見方を覚えてしまえばまったく気にならなくなります。逆に当時の時代背景が分からないくらい古くなってしまうと、何じゃこりゃって思ってしまうけど。
以上が私の考えるリアリティの大切さと、人によって違うリアリティの匙加減の話でした。
ちなみに後半の類人猿云々のくだりはハッタリです。それっぽいこと言ってるけど全部にわか知識。
それっぽく見えたとしたら、それがリアリティの成せるものだと思っていただいて私は一向に構わん。