映画『オールド』レビュー シャマラン節炸裂

オールド(原題:Old) 2021年

監督:M・ナイト・シャマラン

あらすじ

南国のリゾート地にバカンスに来た家族は、ホテル支配人の薦めで穴場のビーチを訪れる。そこに居合わせた人物たちと、家族が味わう数奇な1日を描く。

 

20分くらいの短編でやれそうな、『トワイライト・ゾーン*1みたいな映画。メインステージである砂浜に登場する人物は11人だが、それぞれ伏線のため役割を終えて順次退場するので非常にシンプル。

少し不思議な、ミステリーやスリラーが好きな人にはオススメできます。上述の通り内容は薄めなので先入観なくさらっと見たほうがいいでしょう。

 

ちなみにamazonプライムで「ゾンビ映画」と検索して出てきたんですが、一切関係ありません。

 

個人的な監督と作品のイメージ

シャマラン監督は知名度と期待は大きいものの、その都度がっかりされる印象の強い人物です。「絶対にネタバレをしないでください」という触れ込みで話題になった『シックス・センス』が代表作なだけあってトリックに注目されがちですが、この監督の作風はそこではないと思っています。

トリックという小さな種を、大きく根付かせ成長させて、見事な大樹で圧倒するような手品師の如き監督ではなく、植木鉢に植えて丁寧に水をやり、やがて庭に移植する家族の風景を淡々と描くような、地味なものに過ぎません。

その種の色が余りにも毒々しいため、さぞかし特別な花を咲かせるだろう、特殊な成長過程を経るだろう、そう期待してしまうのは我々の勝手に過ぎないのです。

 

Rotten Tomatoesの批評家支持率は50%、点数も5.5/10点と、酷評されているようでいて、内容はすっぱりと賛否両論に分かれています。「彼は人を強烈に惹きつける仕掛けを用意するが、邪悪に展開することはなく、最後に問いかけを残して終了する」とは一人の批評家の談。シャマラン監督の作風と、この映画の内容を端的に表していると思いました。

 

本作への個人レビュアーの批判的な感想で、最も多い指摘は設定や演出の粗の多さですが、ビーチのメカニズムとか、ルールとか、トリックとかは凄くどうでもいい作品なんです。これらの舞台設定は教訓や箴言を伝えるための手段に過ぎず、そこを指摘するのは「マッチ売りの少女はなぜマッチを売るのか」「赤ずきんが祖母と狼を見間違えるのはおかしい」と真剣に悩むようなものです。

 

『サイン』を観た人には思い出してもらいたいのですが、あの映画の宇宙人のディテールや、世界が侵略されている詳細な情報、その後の家族の行方というのはまるっきり無視されている。たまたま起きた非日常的*2な展開に対して、特定の個人や集団がどう動いていくのか、そのドラマを描いているに過ぎない。

映画や小説で起きるようなイベントとまでは行かずとも、人生の終焉を感じたり、自殺を考えるような心理的ショックを起こすイベントは、我々にも起き得ます。しかしそれは他人事であった場合、抽象化され、余りにも容易に矮小化されてしまう。

それを現実的にスケーリングしてほしいがため、シャマラン監督は大げさな舞台設定を用いるのでしょう。「まるで地球に宇宙人が襲来したような」気持ちで感じてほしいから。

 

「老いる」ということへの寓話

監督自身はこうインタビューで答えていますが、ここからは希望的観測に基づいて寓話を解釈していきたいと思います。

ちなみに作品中に登場するリゾートホテルの名前はanamika、ヒンズー語で女性の名前であり、「名前をもたないもの」という意味になるそうです。けっこうスパやサロンなんかで実際に使われる名前で、利用客に女性が多いことや、アーユルヴェーダのようなインド由来のエステ手法にかけているのでしょうね。

寓話では登場人物は舞台装置に過ぎず、名前が無いことのほうが多いです。群像劇風な作品でありながら、何か意図を持たせているように思えてなりません。

 

こっから本題。

私たちが人間関係において機能障害を起こす原因と、その具体的な解決策とは何だろうか、という問題提起なのかなぁと感じました。言うまでもなくインド仏教の「生老病死」の概念が密接に関わっています。

例えばビーチにおいて最も影響力と権力を持っていたのは医師でした。彼は死や疾病に対処してくれるだけでなく、唯一武器を持っていましたが、その責任の重さや強い自意識からコミュニティを混乱させました。現実世界での独裁者やミクロな面で言えばDV夫のアイコンですね。

次いで看護師と心理カウンセラーの夫婦。集団催眠を疑ったり、セラピーでコミュニティの鎮静化を図ろうとするが、うまく機能しなかった。結局看護師である夫はみんなを救うために病気の妻を見捨ててしまう。彼らに必要なのは解決に向かうヒーローではなく、共感してくれるメンターだったのかもしれません。

さらに、先にビーチに到着していた著名なラッパーである黒人男性は、余りにも徹底して傍観者に過ぎませんでした。本来であれば他人の心に訴えかけ、影響力を持つはずの人物でしたが、同じ境遇の知人を失ったことでやはり機能不全に。天才は孤独であることの象徴でしょうか。

主人公達の家族は、家庭内に深刻な不和を抱えていましたが、やがて置かれた状況から「それどころではない」と気づき始めます。彼らを救ったものは何なのか。残酷なまでに平等な時間(猶予)、あるいは愚鈍なまでの諦め。保険数理士である夫は頻繁に数字や統計を持ち出すが、人生の重大な転機において統計が何の意味も持たないことは誰でも分かる。統計的にあり得ないことが現実に目の前にあることの解決にはならないからです。

 

オチに関しては、あえて触れるまでもありませんね。桃太郎がなぜそんなに都合よく鬼を対峙できたのか。勧善懲悪のおとぎ話に、そんなディテールは不要です。

*1:アンソロジー形式のSFドラマ

*2:シャマランはここが余りにも強烈に過ぎる