いまさら『エイリアニスト』
なぜかは分からないけれど、唐突に『アイアムサム』と『宇宙戦争』と『PUSH』と、ついでに『スーパー8』を見てしまい
そのままの勢いで見始めたドラマ。なぜかは分からないけれど。(白々しい)
やっぱり子役の時はダコタだけど、大きくなってからはエルのほうが女優然としている気がする。
『エイリアニスト』(原題:The Alienist)
19世紀末、精神病患者は人間本来の本質が損なわれていると考えられていた。
人々は彼らをエイリアンと呼び、彼らを研究する人を「エイリアニスト」と呼んだ。
・めっちゃいいなーと思ったところ。
物語の大枠は、ミステリー要素の強い犯罪捜査系クライムサスペンス。
特筆すべきは舞台が1896年のニューヨークである点。20世紀以降の現代的な社会への過渡期がハッキリと表現されている。
『スリーピーホロウ』にも描かれていたが、あの時代のニューヨーク市はファッションや街の外観が非常にオシャレであり、また今では当たり前のことすら、当時の人たちには奇異に受け取られていた。(例えば映画館はまだ「キネトスコープ」と呼ばれ、風景写真をパラパラ漫画で流すだけであった。それでもピアノの生演奏と共に波打ち際が映し出されると、観客は水しぶきを避ける動きをして大喜びしたのだ。)
犯罪捜査に関しても御多分に漏れず、犯罪心理学、科学捜査、警察官の拳銃所持など、現代では当たり前に行われていることが、芽吹き始めている。
ここらへんがいわゆる「異世界転生」っぽく機能しているので、主要人物の有能さと、前時代的なその他の人物が相対化され、見ているほうも流暢に物語を理解することができる。
人間は分からないことに対して恐怖や興味を抱いたりする珍しい生き物だが、やはり「分かっている」ほうが、よりその感情を喚起しやすい。
例えばホラーでは怪物側のカメラ視点で主人公を眺めたほうが「志村うしろー!」と盛り上がれるし、全然分からない分野よりも多少見識があるほうが、上から目線で余裕をもって見ることができる。
それが良い作用をすることもあれば、悪い作用をすることもあるのだけれど。
逆にこの流れで物語が展開していけば、主人公達の「障害」として立ちはだかるのは、やはり前時代的な慣習や無知故の差別であったり、科学への反発であったりと、有体に言えば「そこは人類がとっくに通り過ぎたはずでは・・・」と辟易してしまう。
科学的な裏付けや臨床的な結果が出ていないが故に、主人公達ですら迷いが生じたり、抽象的で曖昧な表現を繰り返すだけになるシーンも見られた。
ここらへんがドラマ特有の冗長さを際立たせていて、スッキリとしない。(ただでさえクライムジャンルは、犯人がやっつけられることでしかカタルシスを得るまともな結末が存在しない。)
・魅力的なキャラクターたち
ネット上でドラマのレビューを見てみると、一番目立った評価はキャラクターだった。(ちなみに検索2位は「エイリアニスト 犯人」だった。理由は後述。)
主人公ラズロ。精神科医として成功している人物で、精神病院を経営する傍ら、刑事事件の精神鑑定をしたり、NY市警の本部長と交友関係を持つ。
捜査協力というよりは、ポケットマネーとコネを使い、連続殺人犯とプライドを賭けた勝負をしていると考えたほうが正しい。
けっこういい所の坊ちゃんだが、気難しい性格と右手の障害が原因で、昔の患者を使用人として雇う気ままな独身貴族。
見た目は威厳のあるダンディなドクターなので、たまに見せるうっかりした所のせいか評価が高い。確かに女性ウケはよさそう。
その一方で、実直な努力しか取り柄が無いとも言え、頭の良さをひけらかしたりとプライドが高く、爽やかハンサムな友人の社交性や才能に劣等感を持ってもいる。
自尊心と劣等感でごちゃ混ぜになった、男ウケの非常に悪いタイプ。
立ち位置としては『パーソンオブインタレスト』のハロルドや『トゥルーコーリング』のデイビスのような、場当たり的な主人公を抑えるブレイン担当に近い。
(つまるところ『NCIS』のリロイや『クリミナルマインド』のデヴィッドのように、強いリーダー像は打ち出せていない。精神科医なのにメンタルブレブレ。)
友人ジョン。ニューヨークタイムズに絵を提供する絵描き。今でいうパパラッチと法廷画家を足したような位置っぽい。
ラズロに命じられて事件の現場保全(被害者の遺体模写)をしたことから、捜査グループのメンバーに。
ハンサムで、酒と女に溺れ、やっぱりけっこういい所の坊ちゃんなので、気ままな独身貴族。
才能に悩んだり、女性にトラウマを抱えたりと実は苦労人なのだが、主人公からは一方的に妬まれている。
ジョセフ・ゴードンみたいな、ちょっとワルそうなイケメンなのだが、死刑囚と面会したらビビりまくったり、主人公の代わりにボコボコにされたりと、情けないシーンが多い。ボンボンだから仕方ないね。
NY市警女性職員サラ。ジョンの幼馴染であり、NY市警の女性職員第1号という肩書。
その実態は本部長の秘書でありタイピストで、まだまだ女性の社会進出は過渡期ですらない。
主人公達の捜査グループと、警察内部のパイプを担当する一方で、事件解決に貢献する重大なひらめきをしたりと、実は一番優秀なんじゃないか説。(なんだこのマジカルニグロ感は。)
幼い頃に母を亡くして父に育てられ、銃の扱いや酒の飲み方は当時の男性より一人前だったりする。
実は本作を見る前は、サラを演じるダコタ・ファニングが「そんなことも分からないなんて、警察もお粗末ね」みたいな、あたいったら最強ね系の高慢私立探偵ドラマだと思ってて
ならず者みたいな当時の警察官に露骨なセクハラをされても、じっと耐えるサラが不憫でギャップがやばい。
ラズロの髭にちょっと惹かれてみたり、幼馴染のジョンからアプローチされてみたり、お約束な展開もあるが、そんなことよりゴネる殺人犯を平手打ちして「おだまり!」とか言ってくれたほうが多分面白い。
その他にも、ユダヤ系の双子警察官が科学捜査を担当したり、主人公の使用人が囮捜査や裏方を担当したりと、確かに魅力的なキャラクターに溢れている。
・問題点というか要望点というか
シーズン1は全10話ということで、シリーズドラマの中では割と短い部類に入るんですが
死体が見つかり、どうやらただの怨恨じゃなさそうだぞ~被害者少年の男娼にまつわる暗い背景~連続殺人事件なのでは~容疑者は富裕層だから逮捕できないかも~警察の隠蔽や不祥事とかとか
(ついでに主要人物の過去とか内面描写とか。)
要素が多すぎる。
いくらなんでも40分の間に詰め込み過ぎて、風呂敷をたたむ前にもう次の風呂敷が開いてるんよ。
もうちょっと、1話完結でテンポ良くいくなり、メインの事件と同時進行で他の問題を解決したりしてくれれば、途中で中断しても「続き見ようかな」という気になるのに
『ストレンジャーシングス』とか『ブレイキングバッド』のように一気に見たら勿論面白いし、続きが気になって細切れでもいいから最新話を見たい、という気にさせてくれない。
「まぁ面白いけど、完結したら教えてください。気が向いたら見ます」とか「つまらなくはないけど、8時間もかけて見るのはしんどい」というのが、圧倒的多数ではなかろうか。
しかも10話かけてたった一人の犯人を追いかけているものだから、そりゃあもちろんお約束な展開もあるわけで、二転三転としているうちに「で、結局犯人誰だったっけ?」という結果になりやすい。(検索ワードに「犯人」って入れさせる作品は正直失敗している。)
キャラクターは魅力だけど、ねちねちいじめられてるだけだし、最後まで見るのはなぁ・・・という人も少なくないのではないか。ちなみに私はジョンとサラの衣装を見るためだけに視聴している。
もっとハッキリと安直に「『CSI』の19世紀版です」と割り切ってくれれば非常に見やすかった。
それでは私は『シャーロットのおくりもの』を見に行きますのでさようなら。
ハードボイルドと邦画と
長すぎたから目次なんか使ってみちゃったり
ハードボイルドとは
メジャーなジャンルではなくなってしまったが、ハードボイルド好きなんです。
酒と煙草と女と暴力、うだつの上がらないサラリーマンのおっさんが、自らを慰めるように格好良い主人公に自己を投影する、昭和のエンターテイメント、そんな印象があると思います。
いつしか負け犬男性の自己正当化コンテンツはライトノベルになってしまった感がありますが、ラノベ*1とハードボイルド小説には、決定的な違いがあります。
まず舞台設定は大半が現代であること。一部時代劇であったり第二次大戦中であったりもするが*2、基本的には読者に馴染み深く、世界設定を詳細に説明しなくとも物語が進行可能であること。
これはハードボイルド小説が一人称でありながらも、客観的で淡々とした描写で進行されることが大きな要因のひとつだろう。勿論、自己投影をしやすくするための舞台装置という側面もある。
次に、主人公が持ちうる能力について。ラノベもハードボイルドも、主人公の冒険活劇と捉えることが可能だが、その冒険内容や障害への対処方法には明確な差がある。
ハードボイルド主人公と、作中のその他大勢の男性を分ける大きな要因は、優れた身体能力や知能ではなく、精神性にある点だ。
ラノベでは剣や魔法のファンタジー世界が多いこともあって、他人には無い能力*3が備わっており、それらを利用して物事が展開していくことが多いが
ハードボイルド世界では物事が展開し、それでも主人公が精神的に変化しないことこそが、強さや差別化として表現される。(探偵の主人公が卓越した推理能力で事件を解決することもあるが、著名な名探偵というよりも、私立探偵として泥臭い仕事をこなす側面が強い)
また暴力的なシーンも多くあるが、一方的に腕っぷしで乗り越えるよりも、肉体的、精神的な強靭性を前面に押し出されることが多い。*4
これはハードボイルドというジャンル名の由来が「固茹で卵」、つまり物事に動じず変化しない様を表しているが故だが、日々の生活で我慢を重ね、鬱屈した読者を正当化する機能を果たしている。
ラノベで「こうなったらいいのにな」という安直なハーレムが描かれることがあるが、ハードボイルドでは「俺には恋人なんて必要ないのさ」というやせ我慢で自己憐憫を実現している。*5
少女漫画のジャンルでも、冴えない(はずの)女性主人公が労せずに逆ハーレムを形成する定番のシチュエーションがラノベ型であるのに対して
部活に打ちこむスポ根ものや、仕事や対人関係で主人公の成長を描くような作品がハードボイルド型と分類することができるだろうか。
男性向けと女性向けで異なるとすれば、(投影している読者を)誰にでもそうと分かる描写で持ち上げているか否か、が大きいと感じる。
上記のラノベ型で言えば、男性向けだと「仕方なく」同行する女性の存在や、主人公がそれを「やれやれ」と揶揄したりするが
女性向けではもっと直接的に(ありとあらゆるバリエーションの)イケメンが好意を寄せ、主人公もそれを歓迎する。(そして周囲もそれを羨む)
ハードボイルド型で言えば、主人公の強靭性や美学は自身のみ(あるいは一部の主要人物のみ)がその存在意義を認めるのに対して、女性向けでは普遍的な評価軸として主人公に与えられることが多い。
有体に言えば、男性は独占と自己満足こそが快楽に結び付いているのに対し、女性は羨望と共感が必要条件として挙げられやすい。(身も蓋もないステレオタイプだけれど)
最後に、ハードボイルドとライトノベル的な物語の差異に、というより、なぜ共通点を持っているにも関わらず、私がことさら前者を好むのか、という点にも触れねばなるまい。
ハードボイルドでは、どのような結末を迎えるにせよ、主人公や主要人物が何かを得るにせよ、必ず痛みが伴う。大団円のwin-winなハッピーエンドは決して描かれない。
それはつまるところ「失って初めて気づく大切さ」と言い換えることができよう。
悪の魔王を打ち倒し、お姫様と結ばれてハッピーエンドにはならないのだ。むしろ魔王にお姫様を殺され、復讐を果たして物語は終焉する。この場合、どちらがより深くお姫様への愛情を確認できるだろうか?*6
(「片想いは絶対に破局しない」みたいなズルい理屈だが、失敗から得る教訓はやはり尊い。)
人間は、得られた喜びより、失った悲しみのほうが感情の振れ幅として大きいことは心理学の観点からも実証済みである。*7
これらの見解はハードボイルドの表層を(同時にラノベの表層を)ごく一部切り取ってなぞっただけに過ぎないものだが、なぜ読んでいて気持ち良いと感じるのか、という説明の一部としては成り立つと思っている。
邦画の描く「内面性」
実はここからが本題なのだが、どうして長々とハードボイルドの説明をしたかというと、邦画の良さはこういう「内面性」にあると思っているからだ。
ハリウッド映画では舞台が世界や宇宙(!)規模まで広がることも珍しくなく、超人的な能力を持った主人公が*8美女と人類を救うべく奮闘するが、邦画ではそんな大風呂敷を広げてしまうと脚本が完成する前から大ボツを食らってしまう。
予算的な問題も多分にあるが、日本人で映画館に足を運ぶ客層が、それを望んでいないというのも大きいだろう。そういうのは、アメコミ原作の娯楽映画で十分事足りているのだ。
我々は、よく知る人物が、よく知る事柄を、少しばかりの非日常で解決するような、手の届くエンターテイメントを望んでいる。(と、されている。)
アニメを除く邦画の興行収入ランキングを見れば一目瞭然だろう。テレビでよく見たドラマの映画化が大半を占めているのは、予算と需要を満たしているからこそなのである。
具体的に、邦画で「内面性」はどのように描かれるか。
例えばオチにどんでん返しを用意したミステリ作品であった場合、洋画(特にハリウッド)では映像的にも見栄えが良い派手なトリックを用いがちです。
それによって主人公が利益を被り、ハッピーエンド。(もしくはその逆)
邦画の場合、主人公や犯人の心情、内面が明らかになることでどんでん返しが起きるパターンが多い。
それによってやはり主人公が利益を被り、ハッピーエンド。(もしくはその逆)
視覚的な隠し扉などではなく、内面的な心情を、あえて伏せておくことで(語らないことで)物語を急転回させる、いわば叙述トリックですね。
この手法は、人物評価を「誤解」している時ほど、効果が大きい。そっけない奴だと思っていたら、実は仲間思いであったり、親切な人だと思っていたら、超サイコパスな奴だったり。
完璧な密室だと思っていたら、巧妙な手法で抜け出していた、という構図と近しい。
代表例として、二つの作品を挙げてみよう。どちらも大好きな作品だ。
『完全なる報復(原題:Law Abiding Citizen)』 アメリカ 2009年公開
監督:F・ゲイリー・グレイ(ミニミニ大作戦とか)
あらすじ
妻と娘を殺害された男性が、望まぬ司法取引で釈放された犯人に復讐を果たす。
やがて逮捕された男性は、完全犯罪も可能なほど知能が高いにも関わらず、むしろ積極的に自ら司法の裁きを受けようとする。
復讐を終えて罪を認めたはずの男性の、本当の狙いは何なのか。
『半落ち』 日本 2004年公開
監督:佐々部清
主演:寺尾聰
あらすじ
元警察官の男性が、「妻を殺しました」と自首をしてきたところから物語は始まる。
殺した動機、経緯など、細かに供述することから、事件は「完落ち」として解決するかに思われた。
しかし男性は殺害後の二日間の出来事については供述を拒否、事件は「半落ち」状態に陥る。
これってどちらの映画も、「犯人の目的は何ぞや」というのが物語のオチなわけです。
『完全なる報復』のほうは視覚的にも派手で、「こいつマジかよ・・・」と震え上がるような人物なんですが
『半落ち』のほうは淡々と描かれて、「ああ、そうだったんやねぇ・・・」という少しだけ温まるストーリーなわけです。
そもそもジャンルが違うし、『半落ち』のほうは原作と少しオチが違うやんけ、というツっこみもあろうが、本来なら「拘束された被告人」という不動の装置が、言動ひとつでコロコロ物語が転換しちゃう点については、比較の価値があると思っています。
オススメ邦画リスト
やっとこさ映画をオススメできるぜ!ここから読んでもいいよ。
まずは以前レビューを書いた『歩いても歩いても』
お盆に実家へ里帰り、という日本人なら大体経験しているであろうシチュエーションだが、家族の会話からそれぞれの内面が少しずつ見えてきて、「ヒエッ」ってなる隠れホラー映画。
人によっては、ほんわか家族の日常群像劇にしか見えなくて、邦画特有の肩透かしを食らうというのも個人的には「らしくていいなぁ」と思うんです。
上記レビューでも触れた『刑務所の中』
原作は実体験エッセイ漫画という異色の映画ながらも、その内容も異色だらけである。
実弾射撃可能な拳銃を所持していたとして、銃刀法違反で「執行猶予なしの実刑」を受けた作者の、非日常的な小話の詰め合わせ。
主人公演じる山崎努がとんでもなくいい味を出していて、その心情も終始一貫してほんわかしている。
そのほんわかしたおっさんが置かれている環境が、とんでもなく非日常すぎてギャップにビビる。
「麦飯にちょっと醤油かけると美味い」とか「便意をこらえて封筒作りの自己新を目指す」とか、気合の入れどころが常人離れしていて、いちいち面白い。
その健気さと、「狂った環境に耐えるには狂人になるしかない」という切なさに、初見でマジ泣きをした迷作である。当時、薬物使用の疑いをもたれていた窪塚洋介がシャバを懐かしむ名演技が笑いを誘う。
ちなみに似たような作品に『極道めし』があるが、こっちは単純なコメディなので気になったらどうぞ。
過酷な環境下で、頭のネジが飛んだり美味しそうにご飯を食べるという点では『南極料理人』も名作だ。冒頭の「お前がいないと・・・!」や「下の歯だったのに」は珠玉の名台詞となっております。
ちょっと箸休め、真面目(?)なミステリ作品『告白』
日本人で好きな女優ってあんまりいないんですが、松たか子は別格です。喋りがすごい。声を出すだけで演技ができる俳優はなかなかお目にかかれるもんではありません。
中学校の担任教師が、教壇から生徒に向けて淡々と「ある告白」をするところから始まります。
何がはじまったんだ?何が明らかになるんだ?と前情報無しで観たほうがワクワクするかもしれません。まさに内面を明らかにすること自体がエンターテイメントになっている、邦画のお手本のような映画構成です。
オチのあたりは賛否あるかもしれませんが、松たか子の存在感がすごい。『悪の教典』は生徒がわちゃわちゃしていたが、こちらは生徒に目を向ける余裕がないほど主演が光っている。
邦画あるある、素朴なしあわせ『小さいおうち』
あ、そうです松たか子です。太平洋戦争の戦況が悪化していくさなか、東京の下町にあるひとつの家を描いた回顧録。監督は山田洋二。
過去を振り返り、内面が明らかになり、そうだったんだー、とオチに繋がるのは邦画特有のお決まりパターン。というか小説原作だから余計にね。
太宰治みたいな、ドロっとした昭和初期の恋愛小説みたいな雰囲気があります。古すぎる作品が苦手な人はこういうところから入りましょう。
ベストセラー小説の映画化、興行的にも成功、『さまよう刃』
邦画って小説原作多いですよね。失敗するの怖いからね。しょうがないね。
寺尾聰さんです。さすがに名優です。俳優繋がりで別作品に派生するのオススメです。
売れに売れたベストセラーですが、原作読んでない人にも大丈夫な感じになってます。
でもやっぱり両方見て欲しいかな。どっちにも良さがあります。
原作は犯人に対してとにかく胸糞悪い感情を抱きましたが、映画は主人公に感情移入してから犯人に恨みを抱きました。映像化されると内面が可視化されやすいから、こういう点はメリットですよね。
全然関係ないですけど、邦画版『狼の死刑宣告』だと思っています。ベーコンのやつ。
こっから時代劇シリーズ『たそがれ清兵衛』『隠し剣鬼の爪』『武士の一分』
山田洋二監督の「時代劇三部作」と呼ばれています。原作がすべて時代劇小説の大家、藤沢周平ですね。
時代劇って小さいころに見ていた水戸黄門とか大岡越前の印象が拭えなくて、古臭い勧善懲悪のイメージを持っている人が多いと思うんですが
美術、小道具、ロケーション、徹底したリアリティのある舞台で撮られた作品で、時代劇が苦手な人でも楽しめると思います。
内容的にはモロにハードボイルドなもんで、男の美学とか鼻で笑っちゃう人もいるかもしれません。
でも木村拓哉が出演した映画で唯一『武士の一分』だけは好きなんじゃ・・・。イケ好かないイケメン侍がボロボロになって、泥臭く立ち回るシーンは「そうそう、中の人もこれくらい謙虚であれ」と思ってしまう。(斜に構えたキムタクが、斜に構えたまま活躍しちゃうなろう系作品が多いからね・・・。)
監督は違うけど、お気に召したら同じ藤沢周平原作の『必死剣鳥刺し』もオススメです。やたら高身長な色気ムンムンのトヨエツが女狐を成敗して、吉川晃司と大立ち回りする映画。池脇千鶴は嫌いじゃないけど、濡れ場はいらないです。ごめんなさい。
あとついでだけど、山田洋二監督と寺尾聰つながりで『雨あがる』も入れさせてください。バチクソに地味な映画です。サムライ好きじゃないと見れないですけど。
書いてみて思ったけど、やっぱり俳優とか監督とか原作とか、どこかが琴線に触れないと、邦画って観る気力がわかないですよね。
ぼけーっと見てるうちに「あれ、こんな人だったんだ」とか「ああ、こういう考えだからこうなったのね」くらい見えてくると、ちょっと楽しみ方が分かるかもしれません。
ハリウッド映画なら「ここはこの人がこう思ったから、こうなるんやで!」っていう手段でしかないんですけど、邦画はその感情自体が目的だったりするんです。
名画『レオン』でも、「少女が一人前のレディに成長する、ちょっと刺激的な冒険」と見ることもできれば、「冷徹な殺し屋が少女と出会うことで人間らしく生きるきっかけを得た」みたいな見方もできるわけです。
外側の派手なアクションシーンもいいんですが、こういう内面を見てひとりで悦に入るのもオツな映画の楽しみ方ですよね。(回収しそこねた伏線を無理やり最後に出していく)
そういえば『ジョーカー』を観たんだった
けっこう色んなところでレビューを読んで、ネタバレを回避しながらも、いつか一人で静かに観ようと決めていた作品だ。
そういえば観たんだったな、と今月の映画秘宝の表紙で思い出した。(あれはダークナイト版だけど)
まぁ2019年の話題作なので苦労せずとも、そこら中にレビューは転がっていたし
ネタバレを気にするほどトリックや衝撃的なオチがある作品ではないのだが。
「バットマンに出てくる敵の前日譚」くらいに考えて、概ね間違っていないし。
しかし今更この映画のレビューをして何になるのだろう、と思いつつも
それなりにレビューを見漁った割には、自分なりの感想が至極シンプルで2行くらいしか無いのに逆に驚いた。
悪の台頭を許すのは、被害を被るはずの民衆自身である。これに尽きる。
17世紀の啓蒙主義が唱えた「善人の無関心が悪を育てる」に通じるものがある。
あるいは「悪を罰しない者は推奨しているのと同じである」というダヴィンチの言葉も同様か。
勿論これはラストシーンを除く、導入からクライマックスまでを表面的になぞったシンプルな感想に過ぎない。
もっと突っ込んだ考察や、興味深いレビューも多く存在するが、果たしてそんなに鼻息荒くするほどの映画だろうか?とも思ってしまった。
映像は美しいし、エンタメ性もあって、アメコミ原作でなくとも成立する完成度ではあるが、秀逸なレビューを先に読み過ぎたせいか「シンプルな感想でよくね」って気分になってしまった。賢者タイムか。
というわけで、映画自体のレビューというよりも、レビューのレビューをしていきたいと思います。なるほどなぁと思ったレビューをうろ覚えのまま紹介。
・稀代の傑作。故に手放しで褒めるのは危険。
本国アメリカで上映反対運動や、子供に見せてはいけない的な意見が多かった流れも含めて。こういうのって害がなかったとしても「私たち心配なんです」っていうPTAみたいな宗教団体がいるので、あまりアテにならないというか、むしろ作品にハクをつけるだけという。
それを抜きにしても、作品の構造が「悪人の正当化」に見えなくもないんで、気持ちは分かる。分かるんですが、それってそんなに珍しいことですか?っていうのもある。
主人公が犯罪を犯して、見事大成功!なハッピーエンドの作品は珍しくもなく、映画で描かれたからといって人が真似するというのも的外れな気はする。
むしろ悪人を否定的に描いた作品を見て、否定されている悪に憧れを抱く人だっているし、映画で描かなくてもアホな奴はアホなことをするもので。こういう創作物の表現が与える影響について語ることって、無意味でしか無い気がします。
こういった手合いのレビューを読んでいて、ふと頭をよぎったのは「パニッシャーさんはよくて、ジョーカーがダメな理由って何ぞ・・・?」だったりした。
パニッシャーはマーベルコミックの人気キャラクター。超能力を持たず、悪人を残虐に処刑するいわゆるダークヒーローで、DCコミックのバットマンとも共演して引き合いに出される。バットマンは財力と科学力で不殺を貫き、パニッシャーは元軍人として必殺を貫く。
ヴィランとは違うため、羨望を受ける立ち位置ではあるが、本作のジョーカーと描かれ方はそれほど変わらない。悪を以って悪を制す、そんな言葉が似合うキャラクターだ。
障害や格差により、社会から理不尽な扱いを受けたジョーカーも、家族を殺されて非合法な殺戮を繰り返すパニッシャーも、作品冒頭で感情移入させ、暴力描写でカタルシスを得る構造は変わらない。一体彼と私とで何が違う?そう思わせる文脈こそが、ジョーカーの恐ろしさでもあるのですが。
・ジョーカーは信用できない語り手である
これもよく見た考察系のレビューですね。上述した「感情移入させにくる悪役像」こそがジョーカーの真骨頂であり、超能力や身体能力を持たないにも関わらず、バットマンを苦しめる所以というか。
映画で描かれるほとんどがジョーカーの妄想であり、手口なのだと。
あるいは「本作のジョーカーは、後に誕生するバットマンと対立するジョーカーとは別の人物だ」という考察も興味深かった。
攻殻機動隊SACの笑い男みたいな「オリジナル無き模倣者」こそがジョーカーである的な。あるいはアーサーがジョーカー化する前の、車の窓越しに見たピエロマスクの男こそが、ジョーカーのオリジナルだとか。
ただ、あそこがこうだから妄想に違いない!的な考察は結構的外れだなぁと思って読んでいた。本作はバットマンシリーズの派生でありながらも、完全に独立したスピンオフとして見るべきで、設定や過去作からの矛盾から考察することにあまり意味を感じない。
むしろ「そういう見方をできる」ように作っている監督が凄いなぁ、と見るべきか。
・正義とは何か、経済格差
この辺のレビューは一歩離れたところから見た人たちというか、語りたいことを前提に本作を下敷きに書いているものが多かった。
バットマン側が無条件の正義なのではなく、アーサーにもアーサーなりの正義があったのではないか、というような言説であったり
いや、アーサーは正義ではないけども悪でもなく、経済格差や社会情勢が悪を生んだのだーみたいな。
そもそも「正義」という言葉自体、定義が非常に曖昧で、状況次第で変化する相対的なものでしかないという側面を持ちつつ
「矛盾なく対立可能な存在」であることを、意外と人は知らないのだよな、ということも考えさせられた。
例えば最近観た映画で『三度目の殺人』というのがあって、主人公の弁護士がまんま矛盾なく対立した正義を持つ状態でした。
死刑が求刑されそうな殺人事件の被告人を、最初はあの手この手で減刑させにかかる。ここでは「真実かどうかは関係ない。顧客の利益を考えるのが弁護士の仕事だ」と言い切り、衝動的な殺人と窃盗のみを認め、計画的な強盗殺人ではなく窃盗罪に落とし込もうとする。
やがて被告人の過去を調べていく内に、主人公は殺人そのものを行っていない可能性を考え始め、法廷で決して有利に働かない真実の存在を無視できなくなってくる。
前者は、被告人が減刑されるという「善」を根拠に正義を行っているのに対し
後者は、被告人が罪を犯していないという「真」を根拠に正義を追求しはじめる。
どちらも彼にとっての正義であるのだが、言動に矛盾が生じることは否めない。そういう葛藤を描いた作品だし。
我々の日常で行われる、身近な正義にしても、その捉え方は様々だ。募金をするのは「善いことだから」する人もいれば、そうするのが「人の正しい在り方だ」と信じている人もいる。
前者は募金をしない人のことを「善行をしない人」としか見ず、悪人だとは思わないが
後者からすれば「正しくない人」と認識し、悪人と見なす場合がある。
正義って一体、何なんでしょうね。
映画はその時の社会問題や、逆に普遍的な価値観を深く考えさせることがあって面白い。
書きながら思い起こしてみれば、本当に色々とレビューを見漁ったなぁという気がする。はてなでも普段映画レビューを書かない人がホッテントリに上がっていたり、楽しく読ませていただきました。
平積みされていない隠れた名作のレビューも面白いですが、ベストセラーのレビューを読み比べてみるのも良いものですね。
そろそろ最強の洗車方法を完成させよう
数ある沼の中でも、洗車沼と呼ばれるものは厄介だ。
絶対的な正解がないものや、最終的なゴールが見えず、終わりのない散財やコレクションを繰り返してしまう点は、他の趣味における沼と変わりはない。
金額や性能の折り合いに悩み、物欲に負けて上位互換に乗り換え続けるのも同様だろう。
洗車沼が他の沼と大きく違う点は、いかに楽をして愛車を綺麗な状態に保つのか、この一点に尽きる。悩むのは金額と労力との折り合いである。
愛車の敵
そもそも、洗車の目的とは何だろうか。車を綺麗にすることである。
ならば車の汚れとは何か?そこから詳しく解説せねばなるまい。
・砂や泥、地域や季節によっては花粉、黄砂、火山灰、融雪剤
付着して時間が経過していなければ、ほとんど水洗いで落とせる。カーシャンプーを併用するとそれほど苦労することはないだろう。洗車頻度が求められ、ボディへの傷を誘発する憎いヤツ。洗車と聞いて想像するのは、通常ここまでだろう。
・鉄粉、ブレーキダスト
主に足回りに発生し、欧州車に多く見られる。新車からマメな洗車をしていれば特筆すべきことはないが、通常のカーシャンプーでは落ちないため、あまり多いようだと専用の薬剤が必要になる。ボディに突き刺さった鉄粉は勿論、傷の原因となる。
・スケール汚れ、イオンデポジット
ボディ全体を白っぽくくすませ、時に白い斑点として現れる恐ろしい存在。この上からガラスコーティングなどしようものなら、斑点の上に斑点が発生し、もはや研磨することでしか綺麗にすることはできない。マメな洗車や、青空駐車を避けることで防止が可能だが、発生原因が「水」であり、濡らさずに走行や洗車をする方法などあるだろうか?いや、無い。*1
・油分、残留したワックスやコーティング
こちらも、もやーっとしたくすみで愛車に「経年劣化車」のレッテルを張り付けてくる。汚れの中では一番目立ちづらく、塗装へのダメージも深刻ではないが、水染み、水垢を誘発させる上、愛情をもって愛車を手入れする人ほど蓄積しているものである。*2
戦うための道具
それでは実践的なパートに移ろう。最低限必要なものから列挙していく。
・高圧洗浄機、シャワーノズル付きホース
何はなくとも、水をかけないと話にならない。高圧洗浄機は持っていると便利だが、出し入れが面倒で高額な点が敷居を上げている。
スノーフォームランスと呼ばれる、泡を噴射できるアタッチメントがあると諸々捗るが、初心者が安易に楽をしたくて手を出すべき存在ではない。*3
目に見える大きな汚れを吹き飛ばすことが最大の目的なので、水圧の高いヘッドであれば普通のホースでも十分事足りる。
ちなみに本気の洗車プロは純水器と呼ばれる装置まで持っているが、これは別の世界線でのお話なので、購入を検討するくらいなら素直にプロの洗車ショップにお願いしたほうが早い。
・マイクロファイバータオル
洗車において最大の労力を求められ、ボディの最大の敵である水を除去するための拭き上げに必須。
水だけでなくワックスや撥水材、あらゆる場面の仕上げで使うため、何枚持っていても無駄にならない。引っ越した先に車好きがいたら、ご挨拶にはマイクロファイバータオルが喜ばれるだろう。
ちなみに何をするにも、必ず濡らして硬く絞った状態で使うこと。布の硬さでもボディの塗装面は簡単に傷が入る。そしてボディ用、液剤別、下回りなど、使い分けつつ、汚れたら洗って、数回使ったらすぐに捨てて構わない。
意外と洗濯機内部の糸くずやゴミなどが絡みついて取れないので、寿命は非常に短い。
・カーシャンプー
必ず必要だが、これといって条件があるわけでもない。目的や効果も様々で、お値段的にもそれほど財布を圧迫してこない。問題は洗いたい時に手元にあるかどうかだけだ。
鉄粉除去剤が入っているもの、ブレーキダストに強いホイール専用、酸性、中性、アルカリ性、色々とあるが、amazonを眺めて売れ筋のもので構わない。
ちなみに希釈倍率が高くコスパが良いものは、洗っても洗っても無くならないというマゾ向けの商品となっているので、洗車沼の入り口はシャンプー沼と言っても過言ではない。
・スポンジ
洗うための道具全般。実際にボディに触れるものなので、タオルよりも質が求められますが、使い方さえ分かっていれば何を使っても自由です。
食器洗いなどのスポンジに酷似した商品もありますが、柔らかいものが多いです。スポンジ自体で傷をつけることを防ぎ、泡の保持を長くするためです。
マイクロファイバータオルとほとんど同じ素材の、ウォッシュタオルや、ウォッシュミットも、ここ最近では定番になっています。水を多く含みやすいため、重たいのが欠点ですが、洗車は力を入れてこするものではないので、流れるように作業できます。
意識の高い人は羊毛のミットを使う人も多いでしょう。極限までボディへの傷を防ぐことが目的ですが、細かいゴミが絡みやすく、泡となじみにくい気がして個人的にはスタメン入りしませんでした。
さらに意識の高い人は、細部の洗浄用に筆を使う人も増えてきました。目立たないところほど、汚れていると目立つものです。
・ワックス、撥水材
この辺は洗車を終えた後の美観の問題であり、好みと言えばそれまでだが、次回の洗車の手間を減らしたり、洗車頻度を下げてくれる効果もある。
何より愛車を美しく保つことが目的なので、綺麗になるほど達成感を生み、モチベーションが変わってくる。
ボディの艶という点に置いては、一番手間がかかる固形ワックスに勝るものはない。苦労する分、愛おしさもひとしお。
撥水については、フロントガラスだけでも施工しておくと雨の時に運転を楽しくしてくれる。汚れもつきにくくなり、ワイパーやウォッシャー液の使用頻度も下がって経済的だ。
特にフロントガラスが汚れて、ウォッシャー液をぶちまけてワイパーを動かすことで、ボディに汚れが飛散し、二次災害を生むことになる。
ボディの撥水については、色々と派閥が存在するので戦争にならないようにしましょう。
通常の綺麗に保たれた塗装面は親水状態と呼ばれ、水がだらーんと垂れていく状態。水はけは最も悪く、水滴の高さも低いです。
メリットとデメリットが分かりやすいのは撥水状態。ボディのコーティングはほとんどこれを目的になされることが多いです。濡れたボディにコロコロとした水滴が発生し、急な角度や風を受けると水滴が流れ落ちる様は絶景。その反面、流れ落ち損ねた水滴は、水分に含まれるミネラル分を残して蒸発し、ボディに残留します。炎天下の青空駐車では自殺行為になるでしょう。
玄人好みで定義が曖昧なのが疎水状態。丸い水滴はほとんど発生せず、かといって親水状態よりも圧倒的に早い速度で水がはけていきます。拭き上げも非常に楽で、マイノリティながらも良い仕事をします。欠点があるとすれば商品の少なさや、施工の手間、耐久性の短さでしょうか。
実際の流れ
それでは上記の道具を踏まえた上で、理想的な洗車の手順を見ていきましょう。
まず洗車をしようと思い立ったら、天気予報を確認します。冗談だと思いますか?そんなわけないだろ、洗車舐めてるのか?
洗車は必ず快晴ではなく曇りの日などに行うこと。真夏の炎天下などは弾薬庫で煙草を吸うのと同義です。*4
愛車の最大の敵は、汚れそのものではなく、水および水に含まれる成分です。直射日光によって揮発する際に残った汚れは、確実に塗装面にダメージを与えます。最悪、水滴のレンズ効果で取り返しがつかないことに。
また、走行直後でボディやホイールが熱を持っている状態も好ましくない。洗車を開始したら、まずは何を置いても水をかける。汚れを落とすためでもあり、ボディを冷やすためでもある。
最初の関門は砂や泥。可能な限り強い水圧でボディ全体を濡らしながら吹き飛ばしていく。*5
最初に洗い始めるのは足回り。一番汚れているところから。スプレータイプの足回り専用洗剤や、専用のブラシなどを持っておくと捗る。
次にバケツに溜めておいたカーシャンプーを、スポンジ等でボディに乗せていく。洗うというよりは、載せて撫でるだけに近い。少しでも抵抗を感じたら、スポンジを洗って綺麗な状態で行うこと。神経質な人はシャンプー用とスポンジ洗浄用に2つバケツを用意する。
全体を洗い終えたら念入りにシャンプーを洗い流し、洗い残しが無いことを確認する。洗っている最中に渇いてくるようなら、分割して行うこと。左側だけ洗う→洗い流して拭き上げる→右側を洗う。
濡らして硬く絞ったマイクロファイバータオルで拭き上げ、小まめに絞って水を落とす。この状態でタオルがひどく汚れているようでは、最初の手順が不十分だったことになる。拭き上げながら鉄粉やスケール汚れなどを確認していく。*6
特にミラー周り、ドア周り、トランク周りは隙間に水が残りやすく、拭き終えたと思っても安心しないこと。後から水滴が垂れてきて跡が残りやすく、放置するとそこが水滴の通り道になってミネラル分などが蓄積していく。湿ったタオルなどを押し当てていると、結構いつまでも水が出てきて驚く。万全を期すならば、拭き上げ後にドアは全開にしておくとか、細かい隙間はブロワーで吹き飛ばすなどが望ましい。
除去可能な汚れがすべて落ちた後は、至福のお手入れタイムだ。固形ワックスを塗り込むもよし、タイヤやホイールにも専用のワックスがあるので試してみるのもいいだろう。
勿論、車内の清掃だって洗車のひとつだ。運転していて気になるのは、フロントガラスの外側よりも内側の汚れだったりするものだから。
新しい撥水材試してみようかな。内装専用のクリーナーを買ってみようか。お気に入りの芳香剤を見つけたら儲けもの。いつかあんなパーツをつけてみたいな。
楽をするために、洗車グッズを買い揃え、満足のいく洗車ができたら、新たな物欲が沸いてくる。洗車に終わりなど無く、いつしか手段が目的へとすり替わっている。そう、これが洗車沼である。
Netflixオリジナル映画『オールド・ガード』レビュー
オールド・ガード(原題:The Old Guard)
主演:シャーリーズ・セロン
Netflixオリジナルなので、少し警戒したものの、セロン主演アクションに釣られて視聴。
前回のアレのこともあるので、本当に期待しないで見たのが功を奏した感じ。
↑前回のアレ
今作はRotten Tomatoesの批評家支持率79%です。どれだけひどいかがよく分かりますね。ちなみにどちらも大人版アメコミのグラフィックノベルが原作。
あらすじはこんな感じ。
何世紀にも渡り、歴史の影で暗躍し、誰にも知られることなく人類を守り続けてきた秘密の特殊部隊オールド・ガード。
そのメンバー5人は永遠の命を持つ不死身の傭兵たちであり、ある日、傭兵たちの不死身の能力が何者かによって暴かれ、恐るべき陰謀のためにその能力を複製しようと企む強大な謎の組織から狙われることに
全体の印象として、アメコミ的なご都合主義を隠すつもりは毛ほども無いんだなぁ、と感じた。
主人公たちが不老不死であることは、そういう設定として受け入れられるものの、科学的に解明しようとする動きがある割にはそのメカニズムの一端には触れられない。
こういう非現実的な設定の部分を、スクリプト用語では「リアリティライン」と呼ぶが、どこまでそういう設定とするか、という線引きは中々難しい問題と言える。
舞台設定が現実とさほど変わらないにも関わらず、主人公の設定が現実離れすればするほど、観客の共感は薄れ、作品世界への没入も薄れ、チープな仕上がりになる。
例えば同じ不死の設定を持つ作品に、漫画の『亜人』が挙げられる。
この作品では、生まれつき特殊な物質「IBM」を発生させることができる人間が、不死の能力を持っている。
老化はするので寿命はあるし、IBMによって治療できる限界も存在し、肉体の損傷自体は修復できても、蘇生が行われない場合もありうる。
『亜人』の中に存在するリアリティラインでは、この「IBM」だけが設定として作られ、その他の副次的な現象はほぼ現実世界と等しい。不老不死を扱う作品の中でも、かなり稀有な作品と言える。
対して、今作の『オールド・ガード』では不老不死で数千年生きることができ、発生条件は不明で、不死者が発生した場合は能力者同士でお互いを認知できる。
不死者はごく普通の人間として生まれ育ち、怪我や病気もするが、ある日突然不死者になる。トリガーは不明。そして曖昧でありながら、恣意的な目的を持ち、ある日突然その役目を終えて不死能力は失われる。
説明不足であることに加えて、妙にスーパーナチュラルな設定がチラホラ出てくる。予知夢とか運命とか役目とか。
これは欧米人のお国柄というか、アメコミのよくある傾向とも言えるが、主演のセロン演じるアンディの厭世的で無神論な主義主張とギャップがあって、上手く機能していない。
原作がもうちょっとボリューミーなことを鑑みると、本来は登場人物の過去であるとか、心情の変化みたいなものに応じて、設定が開示されていくのかもしれない。
通称アンディ。みんなからは「ボス」と呼ばれる。
正確な誕生年等は不明だが、本名は「アンドロマケ」でスキタイ族であるらしい。
今作の不死者はみな、何かしらの戦士であり、戦場で殺しあう最中の「戦死」が不死のトリガーになると推察される。
ただの遊牧民ではないことや、途中少しだけ映る衣装や戦闘スタイルから察するに、紀元前200~900年あたりだろうか。
神様なんていない、すべての現象に意味なんてない、という主張を持つが、不死者の勧誘には熱心で、自分の不死能力はそうでない人を救うために惜しげもなく用いる。
誰よりも運命論者で、長生きしすぎているためか達観している。もはや諦観の域。
本名ナイル・フリーマン。1994年生まれらしい。
映画冒頭で、海兵隊員としてアフガニスタンで作戦中に戦死、そのまま不死者として蘇る。
出来立てほやほやの不死者のため、アンディに色々と質問したり戸惑いを見せるが、そういう立場が観客の作品案内役として機能している。その割にまともな解答を示さないアンディに、余計イラ立つ。
他の不死者メンバーは歴戦のツワモノ感がすごいが、彼女は人を殺したことも、死んだことも一度しかない。(彼女が所属する部隊は全員女性であり、ムスリム圏で作戦を行う上で現地女性に配慮した部分のみを担っていたと思われる)
その割に、映画中盤以降は開眼してジョンウィックみたいなアクションをバリバリ行うようになる。不死者ってすごいですね。
ブッカーさん。1770年生まれで、ナポレオン率いるフランス軍に従事。1812年に加入とあるので、恐らくロシア遠征により戦死。
元妻子を持つ身であるが、家族は既に他界。不死は遺伝しないってことですね。
ナイルが加入するまでは一番の新参者で、お酒をこよなく愛す。
ジョー。1066年生まれ。エルサレム近郊出身でイスラム教徒と思われる。
ロマンチストなガチホモ。
ニッキー。1069年生まれ。元十字軍。
恐らく第一回十字軍遠征でジョーと出会い、お互い不死者となっては殺し合いを続けていたが、度重なる死線を超えて恋に落ちる。なんのこっちゃ。
原作のお陰か、キャラクターの設定はしっかりしている。ゴリゴリのバトル作品ではあるが、アンディとナイルという中心キャラが女性であり、メンバー内にLGBTがいたりとポリコレ対策が完璧である。
映画版の監督に女性が起用されているのも、そこらへんに理由がありそうではある。
ただ、なぜかジョーとニッキーの熱烈なキスシーンには過剰なまでの妨害が入る。なぜだ。
これは深読みではないと思うが、アンディの元相棒であるクインという女性は相棒以上の何かだと思うのだが。登場人物6人中、4人が同性愛者なんて素晴らしいLGBT配慮ですね。
それとも同性愛が不死の条件なんか?
設定が薄っぺらいけど、アクション良し、キャラクター良しで、グラフィックノベルの映像化としてはよくできていると思う。
原作が未読なので正当な評価と言えるか微妙なところだが、単体のアクション映画としては一見の価値ありと言える。
ひとつ我がままを言うとしたら、不死ならではのトリックであったり、戦闘スタイルがもう少し凝らされていると、もっと満足できた。
『無限の住人』や『亜人』に代表されるような、不死と再生を利用したアクションや戦術が活かされると、能力バトルの要素が出てきて格段に厚みを増す。
続編を匂わせる終わり方なので、次回作では不死者同士の戦いが期待できる。そこでもう1歩踏み込んだ映像を見てみたい。
Rotten Tomatoes驚異の0点!ラストデイズ・オブ・アメリカン・クライム
ラストデイズ・オブ・アメリカン・クライム(原題:The Last Days of American Crime)
監督:オリヴィエ・メガトン
監督は『96時間』の続編撮った人ですねー。一見まともに聞こえますけどリュック・ベッソン嫌いな人は嫌いだと思います。(適当な感想)
映画評論の界隈では、かなりの知名度とそれに応じた信頼性を持つRotten Tomatoesですが、本作はそちらで驚異的な点数を叩き出しました。
Rotten Tomatoesでは著名な映画評論家の点数と一般レビュワーの点数を併せて表記することが一般的ですが、前者の評論家点がしっかり0点をマークしていますね。
中には物好きがいたり、出演者のファンが同情点をつけることも珍しくないため、一般レビュワーの点数がそこそこあることは頷けますが、評論家が自らの名前を出してまで0点をつける作品というのは、そう多くありません。
というかある種のネタであったり、社会情勢的に肯定できない内容であることもあり得ますが、本作は普通につまらない。妥当な点数。
(一説には、暴力描写や権力者による一方的な圧力描写が、現在アメリカで行われているデモの発端となった黒人差別を想起させるという見方もあるようですが・・・。やっぱり普通につまらん。)
実際のサイトから気になった一部の評論家レビューを紹介しましょう。
" 今作が犯した唯一の罪は、映画化されたことである。"
"ストーリーも、登場人物も、セリフもどうでもよく、暴力描写が見たいだけならどうぞ。きっとがっかりするでしょう。"
"制作陣は、皮肉にも登場人物たちと同様に、非常に場当たり的だ。"
"物語の前提となる説明に、時間をかけすぎた"
どうでしょう、見終わって読んでみると的を得ていてびっくりしました。そうなんですよ、ストーリーがあまりにも雑で、どうしてこうなった状態になっています。
とは言え、ただ駄作と切り捨てて終わるよりは、なぜこうなったのかを簡単に解説してみます。ダメな映画の例として昇華されれば、存在意義があるってもんです。
はじめに、物語のあらすじから。
近未来。アメリカ政府は犯罪を防ぐため、人間の脳内シナプスを操作し、違法行為を阻止するシグナルを発信する計画を実行に移そうとしていた。
そんな中、経験豊富な犯罪者のブリックは仲間を集めて強盗団を結成、シグナルが発信される前に“アメリカ史上最後の強盗”を行おうとする。
あれ、面白そうじゃない?ケイパームービー大好きな私も思い切り食指が動きましたが、割と導入はいい感じなんですよ。そしてメインキャストもしっかり個性的。
主人公のエドガー・ラミレス演じるブリックさんは、いい感じの髭面タフガイですし、弟想いで才能溢れるギャングスタ。映画『ドミノ』で主人公の女バウンティハンターにベタ惚れの、エスパニョールイケメンを演じていたのが思い出されます。
アメリカンマッスルなマスタングが似合うタフガイ。でも女性と車の扱いは雑。
ギャングスタのリーダーながらも、服役することになった弟を心配したり、街を牛耳るマフィアの顔色を窺ったりと、意外と苦労人。
拷問したりされたりと、血ヘドまみれイケメンが好きな人はもろタイプだと思います。映画冒頭の「探し回ってやっと軽油見つけたよ。コイツはゆっくり燃えるぜ」と言ってぶっかけるシーンはこの映画最大の見せ場だと思います。
対して、彼の相方になるヒロインであるシェルビー(アンナ・ブリュースター)は、ちょっとミスキャストというか、個人的には大外れな女優でした。
登場シーンからしてこれ。透明ビニールのダサいジャケットを脱ぎつつBARに現れ、なんと自分でイイ女ですとナレーションを入れるアホっぷり。
痩せてガリガリの安娼婦っぽいところなんか、某ジョボビッチを彷彿とさせますし、なんだかバッタみたい。勿論、主人公と婚約者の間をピョンピョンと行ったり来たりします。
ちなみに元FBIでMITを卒業しているという肩書を捏造しているスーパーハッカーです。
彼女が主人公ブリックに近づいて、「最後にでっけえ徒花咲かせやしょうぜ」と計画を持ち込むところから、メインストーリーが始まります。
便利だけどウザい。ひっかきまわし役。
そしてシェルビーの婚約者であり、「とにかくデカい強盗したくてたまらないマン」のケヴィンくん。見るからにサイコでキレたら何をするか分からないポジションだが、人を見る目は結構ある。
その正体は、ブリックと対立するマフィアのボスの息子であり、ブリック弟の死の真相を知る囚人仲間でもある。実は陰で「親の七光り」と言われることに嫌気が刺しており、父親と仲の悪いブリックと手を組んででも、最後の日を恰好よく飾りたいと考えている。絵に描いたようなドラ息子だが、実は超キーマンだったりする。
他にもいっぱいいるんですよ。違法行為が完全消滅するから、職にあぶれてしまう優良な警官であるとか、強盗計画に必要でブリックがイチオシする敏腕ドライバーとか
ケヴィンくんのお父さんとか、妹とか、シェルビーの妹とか、マネーロンダリングしてくれる悪いやつとか
これ全部いらない。超クソ。
そもそもが、映画の150分という長尺を作り出したのだって、この一見無意味な登場人物の多さにあるわけで。そりゃ遠隔操作でシナプスをいじって?違法行為ができなくて?この辺の説明が冒頭に入るのは分かりますよ。
説得力を持たせるために主人公が普通の強盗するシーンだって要るし、仲間になるシェルビーとケヴィンのエピソードだって必要です。だけど、あまりにも中盤が中だるみしすぎて、物語の推進力が一気に失われていくんですよ。
~ここからスーパー脚本メソッドタイム~
理想的な映画の尺は、100分程度と言われている。これは人間が映像に集中できる限界でもあり、必要最低限の物語の展開を起こせる枠でもある。
この長さを三分割して起承転結させていけば、大体退屈しないというか、それなりの作品に仕上がる。また、この三幕の比率も1:2:1であることが多く、導入シーンは25分程度、メインは50分程度で収まることが多い。(残り25分くらいでクライマックス。)
必ずしも100分でなければならない、というわけでもないが、この三幕構成だけはしっかり守ったほうがよい。でないととんでもないことになる。
ちなみに名作中の名作、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は116分という長めの尺でありながら(さらに三部作でありながら)この基本はしっかりと守られ、映画開始からきっかり30分で、マーティが過去にタイムスリップして納屋に突っ込む。
~ここまでスーパー脚本メソッドタイム~
本作は150分という尺なので、導入は40分までに終えるべきだろう。ちなみに40分あたりのシーンがこちら。
急に飛び込んできたアメリカ犯罪史上を賑わせる大きなヤマに、ブリックは警戒しつつも実行に移すことを決める。おちゃらけたケヴィンが「俺がボスだぞ」なんて息巻いていますが、どこか3人はぎこちなく、不穏な空気が漂いつつも物語は本番へ・・・。
悪くない感じに見えますよね?肝心の強盗計画がほぼ白紙なことを除けば。
ブリックはヤマを持ち込まれた側であるにも関わらず、テキトーに現場の観察して「いけるで」とか確信してるし、持ち込んだ側のケヴィンは「で、どうやんの?」とか言ってるし、全然ワクワクしてこない。
ケイパームービーの肝は、その強盗テクニックというか「おお、これならいけそうやんけ!」が何よりの醍醐味であり、計画に障害が現れては次々と解決していくのが王道になっていますが
強盗先の内部の状態も分からない観客は置いてけぼり、挙句、計画に絶対必要なブツも頼りないケヴィンにまかせっきり、そして最終奥義であるシェルビーのスーパーハッキングで大体どうにかなる。
とにかくこの二幕目であるメイン部分が究極的におざなりで、見ている側はあっという間に視聴し続けるための推進力を失っていきます。
作品を継続させていく推進力は、いわば自転車のペダルをこぎ続けるようなもので、速度が落ちるとあっという間に脇道に逸れてしまう。この作品で描きたかったことは何なのか、その辺がぶれぶれで、色んな登場人物が伏線も微妙なまま登場しては消えていきます。
特に推進力の分かりやすい例として展開される「主人公に立ちふさがる障害」ですが、コイツらはとにかくそれを自分で作っちゃう。そんで勝手に「きちー」とか言っちゃう。そもそもAPI(米国平和計画。クソダサネーミング。)発動まで時間が刻一刻と迫るにも関わらず、割とのんびりする主人公たちであるとか
金庫開けるための訳わからん戦車砲弾をケヴィンの親父がコレクションしてるとかで、なぜかいがみあうブリックを連れ立って正面から乗り込んじゃったりする。
この砲弾回収ミッションが本作一番の見せ場アクションシーンとなっており、確かに演出単体で観れば二番煎じ感は否めないとはいえ、悪くない出来になってるものの
「お前10億ドル盗もうって日に、ギリギリになって超危ない橋渡るとかアホじゃねーの?ていうか事前にこっそり盗むなりパパにねだって譲ってもらえや」となるわけで。
そんなことだから、当然のようにブリックは計画実行直前なのにマフィアに復讐されたり、シェルビーは人質として拉致されたりする。これ全部いらない。ちなみにケヴィンは腹を撃たれてピンピンしている。
さらに、この展開の何が最悪って、ケヴィンのお家騒動でもあるわけで、観客がケヴィンの方に感情移入してしまう仕組みになっている。描く順序が完全に逆なんだ。
主人公であるブリックのエピソードは、長尺のせいで1時間も前にやってるもんだから、主人公なのに置いてけぼり。復讐だけされに行ってる。
無駄な登場人物である優良警官も、推進力として障害になるが、なぜかシェルビーに襲い掛かる。マジでこの映画誰が主人公なん?
上映時間の長さであるとか、三分割された構成であるとか、そういうフォーマットは、映画館で上映することを前提としているからこその「制約」とも言えるわけだが
Netflixはこの「制約」にとらわれずに済む、というメリットがありながらも、フォーマットから得られる観客のコントロールを完全に失っている。
社会の顔色を窺って、ポリコレ色の強い作品が批判されることも多いNetflixだが、むしろ作品がつまらない原因の多くはこの「配信だから許される自由さ」にあるのではないかと思う。
優れた娯楽は、制約に抗うための工夫から生まれるのではなかろうか。さながら禁じられた恋愛がよりいっそう燃え上がるかのように。ごめんなさい言ってみたかっただけです。
二幕から三幕への転換点、ラスト40分で一気に伏線回収をはかる場面。ここまで実に1時間50分かかっている。
無事に10億ドルを強奪し、トラックに積み替えてカナダまで高跳びやで~というシーンである。ここでケヴィンがとある告白を行うことで、回収しきれていなかった無駄な伏線の登場人物も参加する。
そもそも一幕で40分もかけて世界観や設定の説明を行っていたにも関わらず、どうも腑に落ちない点があったんですよね。嫌な予感はしてましたが、近未来SFとして目をつぶっていた。
脳のシナプスに働きかけるって何・・・?ていうか違法行為の定義って何・・・?スーパーハッカーのくせにシェルビー役立たずすぎん?
API発動中には、何ができて何ができないのか。分からないからただ主人公が頭抑えてるのを観客は眺めるしかない。
API発動の本当にギリギリで計画実行しなければいけない理由って何?もっと早く実行してもいいし、シェルビーがいるなら最悪API発動後でもいけるんちゃうん?
ケヴィンくんの犯行動機は「親父を超えたいから」なことに偽りはなさそうだけど、相方がブリックでないといけない理由付けも弱い。
「ふーん」程度のどんでん返しがこの映画にはあるけれど、それって150分もかけて描くようなネタだったのだろうか。
もっと低予算で、もっと短い時間で、鳥肌が立つような鋭い三幕目への転換を私は知っている。そういった意味では、実に冗長的で、映画化する意味があったのか非常に疑問な作品になっている。
あとエンディングはごく普通のハッピーエンドなんですが、胸糞悪いです。
『レオン』のナタリー・ポートマンに土下座して謝ったほうがいいです。
三日坊主撲滅委員会
何かを継続することは、それだけで尊いし、完遂させることはもっと尊い。特別なことじゃなくたって、結果として残すことが大事だ。
物質的なものであれ、そうでなくとも、物を作るうえで一番難しいことは「完成させること」だろう。何かを計画することはそれだけで楽しいし、一時のやる気で着手することもままあるが、そのモチベーションを維持して完成にこぎつけることは、それなりの苦痛を伴う。
水が低きに流れるが如く、「いい発想だった」とか「完成すれば傑作だ」などと誤魔化し、未完成を思い出にして、やがてその繰り返しに罪悪感を覚えなくなっていく。
そうなれば立派な三日坊主の完成である。
よく言われることだが、小説で賞を受賞した新人が乗り越えなければならない最初の難関は二作目の執筆である。それは時間や労力を自由に割り振れた処女作よりも、数撃った鉄砲のたまたま当たった受賞よりも、困難であると言える。
そして「準備期間」や「充電期間」や「箸休め」などという詭弁を弄し、ただただ時間や、それ以上のものを失っていく。
ここで一つ、勘違いを正しておきたい。ネタやアイデアというものは出し尽くして枯れてしまうことはないし、まして時間経過で復活することはない。
さながらコントロールデッキ*1のように、自らのライフを強固に守りながら、アイデアの流出を防ぐことに執心し、パーマネントによってターン経過ごとにアイデアを得ていくような、そんな戦術は創作活動にはあり得ない。
かと言って、ランプデッキ*2のように大きなネタを開幕に出してみせたところで、それがリーサルに繋がらなければやはり息切れしてしまうだろう。
アイデアとは、それ自体を消費する過程で別のアイデアが生まれるものである。つまりほとんどのアイデアには、それ自体にドロー効果が付与されていると思ってよい。
大きなアイデアには、それに準じた、あるいは副次的な小さなアイデアがいくつか発生しうる。あなたはそのアイデアを同ターンに使用してもよいし、使用しなくてもよい。
大切なことは、アグロデッキ*3よろしく攻撃の手を休めないことである。あなたがアイデアの利用をやめない限り、アイデアは発生し続ける。少なくともライフを完全に失わない限りは。
ここまで書けば、この指南のようなものが一体誰に向けて書かれているのか、賢明な知人であれば察しがつくであろう。
「永住地を探し求める」などといった妄言を繰り返し、開拓者の様な面構えで、イナゴの如く新芽のみを食らいつくし、後ろ足で砂をかけていくアイツである。
口では「そのうち書く」と言いながら、一向に行動に移さない。そして何も形にならないまま、「仕事が忙しい」と言い訳だけが増えていく。
物事に向き合うということは、そのもののためにどれだけ無駄に時間を浪費できるかどうかだ。
上述した通り、人間は低いほうに、楽なほうに流れていく。何から手をつけていいか分からない、無駄に浪費をするのが怖い、それは確かにそうだろう。
しかし楽をすることの最大のデメリットは、分岐点で失敗を選びやすくなることだ。人間は慣れてきた頃に、易きを選んで失敗する。
楽をする習慣を覚えるよりも、失敗しない習慣を学ぶべきだ。そして失敗しない方法こそが、時間を浪費すること、アイデアを消費して生み出すことに繋がっていく。
日記の三日坊主でよく起こることは、1日の終わりに出来事を書き連ねようとすることから始まる。そもそも就寝前に日記を書く習慣自体が無いのだから、忘れたり億劫になることは想像に難くない。
ベッドサイドの目につくところにテーブルがあるのなら、灯りとノート、ペンを置いておく。眠気が勝ってしまうのなら、日付と眠気に負けたことだけでも書くとよい。あるいは、常にノートを携帯し、出来事が起きるごとに記しておけばよい。
要するに書くことへのハードルを下げ、物理的に書ける状態にしておくことが望ましい。
ブログの記事にしても、ブラウザのタブに常時表示しておき、書いたことはすぐに公開しなくとも、下書き状態でどんどんストックしてもいいのだ。
この時、ストックされた下書きに定期的に目を通すこと。未完成でも改変していけばいつか公開できる日がくるかもしれない。
創作物で手が止まってしまうことの多くは、時間のかかる単純作業に差し掛かった時というよりも、少し複雑でどこから手をつけていいか分からなくなる瞬間である。
テンプレートを作成して、全体から俯瞰してみるとどこから手をつければよいか分かりやすくなる。
スクリプトを手掛ける時には時間枠を決定することでページ数が決まり、ページ数が決まることで演出の要不要を仕分けしやすくなる。さらに全体を三分割して、展開の位置を決めたら、あとは単純作業でページを埋めていくだけになる。
これはカードゲームでまずデッキ全体のカード枚数を決め、攻撃カードと防御カードの配分を決め、逆算してデッキを組むことにも似ている。*4
あとは単純に枠組みをパクってしまったっていい。人間が作り出せる物語なんて、マクロの視点から見れば似たようなものだ。神話でも民謡でも、時代を超えて残っているということは、それだけ人の心に残りやすい、シンプルで優れたスクリプトと言える。
桃から生まれた桃太郎が、急に眠り病にかかって王子様に助けられた挙句、地下迷宮に閉じ込められたりはしない。仲間を連れて鬼退治でいいのだ。
全体を俯瞰しても整理できないほど複雑になってしまったら、今度は原点に帰ることも忘れずに。その創作物での目的は何なのか、書きたかったことは何なのか、いくら優れたアイデアであっても、そこがぼやけるようでは無駄なアイデアになってしまう。
2時間の映画であっても、あらすじを3行で説明できない作品は冗長だ。勿論その限りではない大作もあるが、そういうのはいくつか作品を完成させてから手掛けよう。
ブログ記事なら箇条書きだっていい。言いたいことが伝わりさえするなら。大抵は箇条書きに補足していくだけで体裁は整う。
こうしたテクニックとも呼べない小さな積み重ねが、未完成を少しでも完成に近づけることができるし、完成したものをいくつか見直してみると、ある程度、自分の癖であるとか、優れた法則みたいなものが見えてくると思う。
レビューを書く時には、褒める時には良いところを先に書いたほうがいいな、とか。逆にけなす時には最後にこうするとよかった、と改善点を書くとか。
楽をするということと、工夫をするということは、同じようでいて全く違う。頭と時間を使わなければ、工夫は決して生まれない。
「下手な考え休むに似たり」とは昔から言われるが、時間を浪費しないものが行動をすることは決してなく、行動なくしてアイデアは生まれない。
いかがでしたか?この記事が気に入ったら皆さんも日記を書いてみて下さいね!
天気の欄は週間予報を見て先に埋めてしまうといいですよ!